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インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ①2007/07/28 [ナンガパルバットとバツーラ]

08/28

歴史を超える文化遺産とイスラム文化、そして中央アジアに聳え立つ山々

当初予定したK2入りは仕事の関係で断念。今回はナンガパルバット(8125M)を中心にバツーラをトレッキングする計画に変更、7月27日から8月13日帰国というスケジュールで決行した。初めて訪問したパキスタン。余りにも違った文化と山容に驚愕の日々でした。成田からイスラマバードへの直行便は月、金の就航。暫時イスラマバード空港工事で使用できないためラホール着となった。入国はラホールに変更になった。
ラホールはムガール帝国の中心。歴史的遺産が多数あるので先ずは市内見学をした後、アジア・ハイウエイを経由して、さらにカラコルム・ハイウエイを経てチラスへ向かう。途中重機の転倒で半日道を塞がれたため停滞を余儀なくされた。思いがけないトラブルに遭遇したものの、最終的には2日がかりでパキスタン北部辺境地区に着く。
当地はヒマラヤ山脈(緑の山々)の尻尾(西端)に位置するとともにヒンドゥークシュ(ヒンドゥー人を殺す山々)山脈、カラコルム(黒い山々)山脈がぶつかり合っている地質的には極めて面白いエリアだそうだ。その間を縫ってチベットからインダス川がアラビア海に向けて長い旅を続けている。下流にはモヘンジョダロの歴史遺産がある人類の文明発祥の地の一つとして有名なところだ。

ヒマラヤ西の果てにあるナンガ・パルバットは8125M、世界第9番目の高峰だ。今回のトレッキングはナンガ・パルバットを南面からそして北面から眺望し、さらにインダス川を上流に向かってカラコルム山脈にあるバツーラ氷河を遡行することにあった。当地はネパールほどモンスーンの影響が少ないということでベストシーズンは夏になる。今回はベストシーズンより若干遅れての入山となる。

帰路はタキシーラにある世界遺産を見て、イスラマバードから帰国した。



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インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ② [ナンガパルバットとバツーラ]

7月27日(金)から28日(土)(成田→アボッタバードへ)

27日14時パキスタン航空PK243便でNRT出発予定だったが、機体に空調不具合があって1時間のディレイとなる。前々からパキスタン航空はトラブルが多く、オンスケジュールでは運行されることが少ないと聞いていた通りだった。

天候快晴のなか寄港地の北京には5時40分(日本時間6時40分)に到着する。北京では1時間のトランジットが予定されているが、外に一歩も出られずなんと機内に缶詰状態で待機をさせられた。しかも再びトイレの修理のため係員が呼ばれて修理が始まる。機内掃除や食材の搬入そして北京での搭乗客の出入りで落ち着かない状況が続く。その上エンジントラブルも重なったようで7時半ようやく出発体制になる。 航路はウルムチからタクラマカン砂漠を経由してラホールに向かう。いつもなら下戸の私も酒をあおって眠りにはいるのだが、このエアラインはイスラム教のもとに禁酒状態になっているため機内での調達は出来ない。 ビジネスクラスといってもさほど快適でもなく、しかも砂漠に近づくにつれ激しく機体が揺れ始めた。今までに経験したことがないほど長く揺れ続ける。危険が迫っているとは思えないが、さすがに不安になる。

前面にあるテレビには航路図が表示され現在地が示される。パキスタンが近づくにつれ、「disputed territory」と言う表示に目がいった。すぐ側に座っていた日本人同乗者が連れのガイド(アフガン人)とそれについて議論していた。しかしその会話からは何のヒントも得られず疑問を解決できず消化不良の儘になる。パキスタンに着いてからガイドに確認して分かったことだが、そこは世界の紛争地の一つである(だった?)カシミールであることが分かった。いまでもどこの国に帰属するのか宙ぶらりんのエリアなのだ。約6時間弱のフライトで10時35分ラホールに到着した。

ラホール空港で現地のスケジュールをコーディネートして貰ったアミン・ベークさんと落ち合う。彼とは東京で日本人の奥さんと一緒に会っただけなので顔をおぼろげにしか記憶していなかったが問題なく再会を果たした。彼はフンザ(パスー)の出身、大柄で髭を蓄えている。日本語が達者でやり取りには不自由がない。

飛行場から宿に向かう。12時に「リーダーズ・イン・ラホール」に到着する。途中の景観はネパールとは格段の違いだ。整然とした街並みから経済力の違いを実感する。ホテル内はなんともいえない独特の匂いが漂っていた。何か、と言われても断言は出来ないがおそらく香辛料の匂いではないだろうか。 ロビーで今回の日本語通訳兼ガイドのIrfan Karim Sukuさんを紹介される。彼はフンザの出身で、ギリシャ人の血を引いているとのこと。フンザにはアレキサンダー大王侵攻時に住み着いたギリシャ人の血を引く集落があるそうだ。外見は鼻筋の通った目の大きい、知的な青年だ。後で分かることだが、彼の日本語は実に見事で、日常会話を越えて歴史観、文明についても語り合える語学力には感服した。ただ、後で分かったことは彼がギリシャ系とか、アレキサンダー大王の血を引くと言う人の話を訝る人もいて彼のことを嫌う仲間もいることが分かった。どちらが正しいのか、その真偽は闇の中にある。明日からのスケジュールの確認と注意事項を聞いて部屋に入る。バズ・タブでの入浴は当分出来ないのでしっかりと味わっておこう。

28日何時頃だろうか明け方に遠雷とも言えない、何か騒々しいごぅごぅと言う喚きに目を覚ます。何事か、とその時は不審に思ったが、後で分かったことは祈祷の時間を拡声器で伝えているとの事だった。7時過ぎにモーニングコールで目を覚ます。朝ご飯前に街並みを見に外に出る。さすがに夜の印象とは違ってごみが散乱し不潔感が漂っていた。カメラをぶら下げて近くを歩いていると警官が近づいてきて、「どこから来た?」と質問される。あれこれの問いが続き彼らの目的が分からないまま、物見遊山なのか尋問なのか、しばらく緊張した場面が続く。さすがに一抹の不安が横切り、この状態から一刻もはやく脱出したい衝動に駆られる。顔では笑顔で答えながら「ホテルに帰らなければならないので」と言って、振り払うようにしてホテルに戻る。

ラホールは700万人の人口をかかえるカラチに次ぐパキスタン第2位の大都市だ。古く(1525年から200年間)はムガール帝国の中心として栄え、その後は英国植民地下で発展した都市だ。ラホールは古い街並みと英国統治下に発展した街並みに大きく別れている。しかし、我々にとっての魅力は当然ムガール帝国時代の王宮やモスクだ。今回はラホール見学に多くの時間を割けないので代表的な遺産であるバードシャーヒモスクとその側にあるシク教寺院(インドをルーツとする宗教)を見る。

バードシャーヒモスクはフォート(堡塁)の奥にあり、帝国最後のオーラングゼーブ皇帝によって建立された。見事な造りに圧倒されたし、まさにイスラム文化の国に足を踏み入れた実感が湧いてくる。モスクに入るには靴を脱いで裸足になる。一応歩くところには布が引いてあったが、石ころがあったり、鳩の糞があったりで裸足には一寸辛いときもあった。キリスト教のカセードラルに入ったときや高い天井の日本寺院に入った時に感じる不思議な神々しい気分と同じものをそこで体感した。宗教には形は違っても心に響くものには共通点があるようだ。

10時半過ぎにラホールを後にしてアジア・ハイウエイを一路イスラマバードに向かう(参考までにイスラマバードまでの通行料は235ルピー=日本円で430円)。アジア・ハイウエイは国連主導のもとアジアと欧州を繋ぐ幹線道路として企画され整備されたもの。ここはニューデリーからラホール、イスラマバードそしてカブールからトルコに向かう一部だ。3車線はある立派な自動車専用道路だ。チャーターした車はトヨエースの中古車。市内を出るまでは渋滞する道を縫って走っていたが、ハイウエイに入ってからは一気に交通量が減って快適な走行になる。ラホールからは限りなくフラットな地形で耕作地では米やトーモロコシが栽培されている。丁度田植えの時期なので家族総動員で田植え作業だ。機械化する前の日本と同じ光景が展開している。灌漑用水路が整備されているので干魃のリスクはないようだが、他方洪水のリスクは高いと聞いた。

1時ハイウエイにあるサービスエリアで昼食をとる。カリーライスとサラダ。まだまだ味には違和感なく美味しく平らげた。2時には出発する。しばらくしてジェルム川を渡る。この川はいわれがあってアレキサンダー大王の侵攻を防衛するために象部隊が威嚇し、大王はその際受けた傷が原因でバビロンで死亡したとの伝説があるそうだ。イスラマバードに向かって気がつかないうちに徐々に高度を上げていく。ようやく丘状の起伏が目に入る。コートファールという山脈に入る。道もS字状にくねり始め、さすがにエンジン音が唸りに変わった。緑が確実に減少して赤茶けた土質に変わる。モータリゼーションはパキスタンでは日本車によって実現している。走っている車の90%以上が日本車だ。スズキ、トヨタ、ホンダ、日産、三菱などなど。僅かに韓国車が目に入る程度だ。日本自動車業界の見事な勝利地なのだろう。

キヨラ岩塩鉱という採掘地がある。世界で2番目の規模だそうだ。ヒマラヤの岩塩は有名だが、貧しい奥地では岩塩が換金物資として命の綱になっている地域もある(映画・キャラバン)。4時一寸前に料金所を出て、イスラマバードの郊外に入る。ここでトレッキングの装備=テント、食材を車に搭載する。昨晩ラホールで会ったアミンさんが先回りして荷物を用意して待っていてくれる。ここで山岳でのトレッキングガイドをするナシーヌさんが参加する。彼は北部パスーの出身。白人(ロシア系?)の血を引いているのだろう中央アジアから南下してきた少数民族だ。アミンさんと同じ地方の出であるけど全く違う部族だ。腹が出ていてこれでトレッキングガイドかと疑いたくなる体型に一寸不安が走った。イルファン君からは彼は妊娠中です、とからかわれながら紹介される。

荷物を搭載し終えて早速今日の目的地に向かう。イスラマバードは新首都として完全に人工的に作られた街だ。ラワルピンジという古くからの商都に隣接した整然とした町並みが美しいが、人間臭さが感じられない味気なさも漂っている。我々はカブール(アフガニスタンの首都)への表示に従って西に向かう。世界の紛争地の一つになっているアフガニスタンの首都カブールにはカイバル峠を越えればそう遠くないということだ。3週間前に起きたイスラマバードでの神学校籠城事件やアフガニスタン難民キャンプの撤去など紛争地域まっただ中という印象だが、現実にはごく普通に市民生活の営みが続いているようだ。遙か右手彼方には山並みが見えるが、そこはヒマラヤの西端にあたるところだ。ヒマラヤの尻尾とも言われている。目視は出来ないが、そこに我々が目指すナンガ・パルバットもあるはずだ。

4時タキシーラの街に入る。帰路でこの街に寄るので詳細は後述するが、当地はガンダーラ地方の東端になり、クシャーナ朝(1世紀から5世紀)が仏教を信奉し、特にカニシカ王の時代にギリシャからの彫刻技術と仏教精神が一体化した仏像と言う概念がスタートした地方だ。近隣にはアレキサンダー大王の侵攻時代の遺跡、クシャーナ朝時代のシュトゥーパや仏像など多くの遺跡が残されていて、世界遺産にも指定されているところだ。外国の侵略とか宗教戦争に巻き込まれてこなかった日本人にとってはこんな話を聞くだけで、歴史の重さを実感する。しかも世界の歴史を作ってきたエリアであることを示している。

アジア・ハイウエイから離れハリプールの町を5時45分通過、当地にはパキスタンを代表する刑務所とダムがあるそうだ。ハザーラ・ハイウエイからカラコルム・ハイウエイを目指す。6時40分アボッタバードの街に入る。大学や医学校もある文教都市として有名な街だ。英国統治下に発展した町で当時の統治官アボッタが発展に貢献したところに地名の縁があるそうだ。街道から一歩中に入ったコッテージが今晩の宿、。7時10分に到着だ。いかにも英国人好みの造り。芝のある庭にはテーブルがあり、先着の白人が団欒していた。


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インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ③ [ナンガパルバットとバツーラ]

7月29日(日)
アボッダバード~ベシャームへ

追記:この街にビンラディンが潜伏していて殺害された。

夜半から雨音にしばしば睡眠を妨げられるほど激しく雨が降り始めた。それに雷の音も加わった。5時半には目を覚まし外を見るが、激しい雨足は相変わらず。今日は車だけの移動なので雨降りでも関係ないと高を括っていたが、それが原因で大幅に計画変更を余儀なくされる羽目になる。7時に予定通り出発する。しかし、雨は益々激しく降り道路は冠水しまるで川のように流れ、どこが道でどこが歩道なのかも見分けがつかない状況になっている。車が走ると水しぶきを跳ね上げていくが、歩行者への配慮はお構いなしだ。早朝で道路は空いている。順調に走っていたが、20分も走らないうちに突然道路が渋滞にはまる。しばらくするとトラックに乗せた重機が雨が原因で道路に落下して道を塞いでしまったとのことだと

人伝えに状況が分かってきた。ブルが来て復旧するには相当の時間が掛かるとの見込みで一旦ホテルに帰ることになる。戻る途中右手にあった総合病院に見学のために立ち寄って貰う。まだ診察時間前なので患者、その家族などが右往左往しているが、スタッフはほとんど見あたらなかった。医療制度などガイドに質問したが、埒があかず状況確認は断念する。暫時病院内を見学した後、道路状態を確認するために再び折り返して前進してみる。

しかし、前回よりもかなり手前で渋滞にはまりやむを得なくお茶小屋で時間稼ぎをすることにした。結局はそれから4時間近くそこで待機することになってしまう。イスラマバードで買い込んだマンゴーを食べる。日本ではマンゴーと言えば特別な果実として扱われているが、当地では庶民的な果実だ。ただ、高級品は欧州に輸出されてパキスタンには二級品以下が流通するそうだ。ところが、PIA(パキスタン航空)が欧州当局から整備不良を理由に乗り入れ禁止となったために輸出が困難になり、その結果一流品が国内に出回るようになり、皮肉な結果だが国内で美味しいマンゴーを食べることが出来るようになった。地元で熟したものを食べて初めて本来の味を知れると言うことだろう、とても美味しかった。売店ではペプシ・コーラ以外にはスプライト(パキスタンではペプシが市場を押さえている)そしてマンゴージュースが売れ筋のようだ。喉を潤すのにはマンゴージュースが一押し。因みにマンゴーの値段は1kg40ルピー=約80円(3個相当)が相場だ。

のろのろ動き出した流れに乗って前進をする。下りてくる車に声を掛けて事情を聞くが、相変わらず道は塞がったままのようだが、迂回路が使えるようになったとのことだった。実はその迂回路も行き違いが容易くない狭い道でついさっきまで通行できなかったらしい。

迂回路に移り狭い道を揺れながらしばしば行き違いに時間を費やしながらようやくのおもいで1時40分本来のルートになる国道に戻った。反対車線は迂回路に回れない大型車が長蛇の列を作って渋滞している。ここまで通常のペースであれば40分程度で移動できた距離を今日は7時間近くかけて移動という羽目になったわけだ。

すぐに人口40万人をかかえるマンシェラの街に入る。マンシェラはここから先、中国国境までで最大の都市になる。ここでも道路税の徴収がある。左手には赤煉瓦で作られた約3000人(ピークでは1万5千人)収容されているアフガニスタン人難民キャンプがある。アルカイーダ、テロ問題の背景にあるアフガン難民を今日までムシャラフ政権は受け入れてきたが、昨今の政治情勢は大きく変わり、難民キャンプを閉鎖して母国に追い返し始めているようだ。このような痛々しい現実に正解が無い、悲惨な今日的状況に何も出来ない我々のそして人類の無力を実感してしまう。

4時半シンギアリの街を通過。両側には棚田が拡がり緑が豊かな地方だ。当地はモンスーンの影響を受けて水が豊富にあり、米の栽培が盛んだ。標高2000Mのチャタル峠を越えるためにヘアピンカーブを上っていく。周囲には松の木が繁茂している。5時25分峠を越えたところで食堂に寄って一息入れる。6時15分バットラームの街に入る。あちこちに修理中の家が目に入る。この一帯はカシミールの地震で深刻な被害を受けて、日本からの災害復旧の支援活動も行われているところだ。

7時にタコットの街に入る(イスラマバードから265KM)。眼前にはインダス川が蕩々と流れている。ようやく対面できたインダス川は激流となって先を争うようにして下っている。カラコルム街道の起点になる街だ。すぐにインダス川を対岸に渡る。対岸に伸びる山並みはまさにヒマラヤ山脈の尻尾と言われる最西端にあたり、インダス川の右岸はヒンズークシュ山脈の山並みだ。これからはインダス川に沿って遡上を続ける。8時にベシャームの街の入り口にあるランナロッジに着く。インダス川の間近にあるロッジはコテージ風だが当然空調もなく扇風機だけで冷気を呼び込むていど。蒸し暑さが今晩の最大の敵になりそうだ。ベシャームは今日の道中でのトラブルのため当初宿泊地であったチラスからかなり手前の街になる。ガイドの読みでは明日の日程を詰めることでリカバリー可能とのことだった。




インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ④ [ナンガパルバットとバツーラ]

7月30日(月)
ベシャームからフェアリーメドー(別名メルヘン・ヴィーゼ)へ

蒸し暑い寝苦しい一夜が明け5時前に目が覚める。さすがに外に出るとインダス川の冷気がこの一帯を覆っていて涼しい。ロッジ前を走るカラコルム街道は偶に轟音と排気ガスを振りまいてトラックが走り去っていくが日中とはうって違って閑静そのもの。 道路上にある標識にはイスラマバード、ペシャワールがそして昨日のアボッダバードからは147kmと表示されていた。こんな距離だからトラブルさえなければ当地での宿泊はあり得なかったことを改めて実感される。ペシャワールの先には騒乱のアフガニスタンの首都・カブールがある。今、紛争地帯のすぐ側にいるのが現実なのだがそんな緊張感は全く無い。それを窺わせるのはニュースで見る民族の姿が似通っている点だけだ。

ロッジの食事を軽く済ませて昨日のロス解消の為5時40分早々に出発する。ロッジはベシャームの街の入り口にあった。しばらく走ると集落が密集してくる。両側を店が軒を並べている。食べ物や衣料店、電気屋、靴屋などなど。 ベシャームはギルギッドとイスラマバードの中間点にあり、行き来する者にとっては宿泊もする中継点。町中には何軒かのホテルもあった。この一帯はスンニ派の信者が多く、女性の姿は全くと言っていいほど見られない。そして最も原理主義に近いイスラム教を信仰しているエリアだそうだ。ガイドから半ズボンで肌を露わにしないように、と我々にも忠告があった。おそらく現実になるとは思えないが、場合によっては異教徒への反発が思いがけない行動になるリスクがあるということなのだろう。

すっきりしない空模様だが雨の心配はないようだし、今日は大部分を車で移動するので、天候に気を使うような事態にはならない日程だ。民族的にはイラン・アーリア人の血をひいた人々のエリアになる。アーリア人は白人に属し、大きな目と鼻が特徴だ。7時右手にあるインダス川右岸に大きな集落バタンが見える。インダス川に沿って遡行し、9時にはコーヒスタン地方の中心地ダス(ダッソーとも発音)に入る。 コーヒスタンとは「山々の国」を意味しているそうだ。前述したとおりこの一帯は最もイスラム原理主義が信仰されているので、異文化そして外国人に対しては極めてナーバスになっている。アフガニスタンをNGO活動で支えている中村哲先生が活動拠点にしているペシャワール会があるが、その活動の延長にこの地域にも診療所が設置されていたが、感情の行き違いなのかそのNGO活動が排除されたと言う話は象徴的だ。このような不可解な結果になる背景にはイスラム教の一つの本質である地域社会において宗教家と為政者が一体(同一人)になっていることと、結果的に閉鎖社会を支えることになってしまう教育に対する忌避(とりわけ女性に対する差別)が我々から見れば異常な言動になっている背景にあるように思えた。宗教的、文化的特殊性を知れば知るほど中央アジアでの紛争がそう簡単に解決するとは思えないし、ましてや米国流の武力による平和実現なんかとんでもない事が理解できる。

今走っているカラコルム街道は1972年、12年間かけて作られた立派なハイウエイだ。当時のブッド首相(今パキスタンでの政争の中心人物の一人でムシャラフの対抗軸にいるブッド女史はその娘=2007年選挙活動中に暗殺される)が中国との政治的関係を強化する為に中国の要請を受けて作られた道だ。もともとシルクロードがインダス川に沿って東西を繋いでいた歴史を残している地域だが、今では高速で走る車が行き交う道路として重要な位置を占め、中国にとってアラビア海に直結できるチャネルを確保出来るだけでなく、同時に一帯住民の利便性を提供したという意味で歓迎されているが、しかし、現地の人にとってどこの国でもある開発と文化との衝突はあるようでそのバランスの難しさを改めて考えさせられる。

そんな経緯があるのでこの一帯では中国人が幅を利かせていて、我々の様な顔つきは中国人として認識されるようだ。街で出会うと先ずは中国人か、と聞かれる。あちこちに崖崩れや路肩崩壊などで道路が痛んでいたが、始終道路崩壊の危機に晒されているカラコルム街道はFWO(Frontier work organization)というパキスタンの軍隊の機関によって維持されている。

シャティアールの街を過ぎる頃から街道沿いに岩絵を見ることが出来る。岩絵は仏教を求めて中国からインドに旅した仏僧が岩に刻み込んだもの。4,5世紀の出来事。11時20分コーヒスタンから北西地区の州境の街バーシャに入る。ここでもチェックをを受ける。実際はガイドが用意した我々の情報(パスポートナンバーと予定表など)のコピーを渡すことで済ますことが出来る。コーヒスタンの奥地になってからは山岳の様相は岩と瓦礫だけになった。細々と多少の草が生えているぐらいだ。ここはモンスーンの影響をほとんど受けない、既に地続きのタクラマカン砂漠とも共通した地勢的環境にあるようだ。水に恵まれているネパールのヒマラヤとは全く違った様相だ。

インダス川の流れはこの一帯では緩やかにまるで留まっているようにさえ見える。当地バシャーリはダムサイトになるところ。巨大なダム建設工事が細々と始まって河原に建機が見えた。たしかにインダス川の流れ以外には河原でさえ砂漠のように乾燥しているこの地方にとってはダムの建設は大きな恵みになるだろう。いつになったら完成するのかが気に掛かる。

12時前にチラスに着く。灼熱の太陽を浴びておそらく40度を超す気温のようだ。何軒かあるホテルの一つに入る。店内は大きな扇風機が何台か回っている。風の当たる場所を探して席を取る。このホテルは中国料理の店だ。カラコルム街道の建設に協力した中国との関係を思わせる作りだ。その結果だろう、味はそれなりのものだった。

1時15分出発してナンガバルバッドのノースフェースを目指す基地フェアリーメドーに向かう。相変わらず広い川幅の中をインダス川は蕩々と流れ、時には中洲が形成されている。途中温泉が噴出していると言われるタトパニを2時10分通過して2時20分にはカラコルム街道ライコート橋の袂にある横道に入る。そこが山岳に入るジープの基地になっている。

そこには数台のジープが待機している。既に予約済みなのだろう髭を生やした老人運転手のジープに乗り込む。ガイドによれば彼が一番の名手で安心して任せられる運転手を事前に予約しておいたといっていた。ジープとは名ばかりで我々の乗るところは簡単な囲いと幌があるだけの荷台。当地でトレッキングの世話になるポーターが集められ一緒にタトーに向かう。一人のポーターが我々の車に同乗したが、厳つい無表情な姿に距離感を、何か不気味ささえ感じ、ちょっとした緊張感が走った。トレッキングのスタート地点、タトー(2500m)までの山岳道路は想像を超える悪路で、ようやく車幅が確保出る程度の狭い山岳道路に生きた心地がしなかった。道は岩を砕いただけの悪路。激しい振動で危うく外に放り出されそうになるし、不自然な姿勢で荷台に載っているので腰が痛くなってくる。命を預けている運転手はインドで流行っている音楽テープをかけて鼻歌まじりで隣にいるポーターに首を振りながら話しかけている。おいおい、しっかり前を見て運転して欲しい、とついつい思ってしまう。そんな心配を気にもせず前進する。途中で上から降りてきたジープと行き違う。どこで行き違うのかと不安になったが、そこは勝手知った道とばかり簡単に後退しながら、対向車と行き違って先に進む。

深いV字峡の斜面をようやく均した細い道を進むことどのくらい経っただろうか、深い谷も穏やかになり、対岸には集落が見えた。そこはタトーの集落だ。命の危険も無くなり、ホッとしていると山岳道路の終点地点に3時40分着く。チラスでは灼熱の暑さだったが、ここに来ると厚く雲に覆われている上に標高も稼いだこともあってすっかり涼しくなっていた。降りようとすると距離を感じていたポーターが水晶石を差し出してきた。何か交換を要求しているのではとガイドを呼んでその意図を聞いてもらったが、彼は純粋にプレゼントしたいとのこと喜んで頂戴したが、今もって彼の意図は分からないままだ。人の話によるとこの一帯の部族ディアミール族は無邪気で一途な気性の持ち主とか。ひょっとしたら彼のただ純粋な気持ちだったかもしれないと疑心暗鬼になった自分がむしろ恥ずかしくなった。

4時に出発しいよいよトレッキングの開始だ。最初はなだらかな登りであったが、徐々に急登になってきた。すでに3000mを超す高度になっていることもあって息苦しくなってきた。全体的に雲に覆われているのでナンガバルバッドを望むことは出来ないが、左手にライコート氷河の末端を望むことは出来た。不思議と高度を稼ぐに従い松か杉だろうか樹林帯になってくる。足下も暗くなり、7時にテントサイトにようやく着く。フェアリーメドー(3300m)は地名からも想像つくように、バンガロー風の小屋があって西欧の静養地を想起させるほどだ。フェアリーメドーはメルヘン・ヴィーゼとも呼ばれ、ドイツ隊がこちらからの登攀を目指したときに付けられた地名。その後、英語名が一般化して今日に至っている。

今日も食欲が無く体調が優れず、夕飯を抜いて自分だけは早々とロッジに戻り寝ることにする。ふと人気を感じて目が覚めると、ガイドが心配してマンゴーを寝床に持ってきてくれていた。体調の悪いときには果実ほど嬉しいものはない。不思議と喉をすんなり通り、貪りつくように平らげた。その後、再びあっという間に熟睡に入った。


インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑤ [ナンガパルバットとバツーラ]

7月31日(火)フェアリーメドーからBC往復

5時過ぎに目が覚める。外を見ると昨日より日差しが感じられるが、ナンガパルバットは雲の中だ。小屋の前に腰を下ろして雲の動きをじっと見ていると時々雲の切れ間から稜線の一部や小さなピークが見え隠れするようになる。左手に辛うじてライコート氷河の末端が見える。
ふと気がつくと太陽の光が眩いばかりに差し込んできて、雲が湧き起こっては稜線の裏に消えていく、それを繰り返していくうちにあっという間にチョンゴラ(6828M)そしてライコート(7074M)のピークが表れ、しばらくすると憧れのナンガパルバット(8125M)のピークが望めるようになる。幸運にも昨日とはうって変わった素晴らしい天候だ。ナンガバルバッドの北壁に射し込んだ朝日を受けて、稜線がくっきりと浮き彫りになり、深いブルーの空と雪をたたえた稜線が見事なコントラストを作っている。幸運としか言いようのない現実につい興奮してしまう。

Fairy Meadow と呼ばれる当地は別名メルヘン・ビーゼとも呼ばれる。もともとこちらからのルートを攻略したドイツ登山隊のキャンプ地でもあったのでメルヘン・ビーゼと呼ばれていたが、英国領になってからは英語名で呼ばれるのが一般的のようだ。ここはその言葉から想像されるように桃源郷の世界だ。ナンガパルバットを背景にロッジ前には池塘が拡がっている。草地の中をうねりながらせせらぎが流れ、その奥には針葉樹の森が囲んでいる。どこからともなく牛が草を食みに現れては去っていく。人さえいなければ神々の世界だろう。

しかし現実には我々以外に十数人の韓国人の一団が泊まっていた。彼らは集団特有の喧噪を振りまきながら右往左往している。彼らはロッテデパートの山岳部の一団だ。日本で言えばワンゲル程度という印象、集団行動は人種を問わず周囲にはお構いなしの行動になるようだ。日本が高度成長期に「のうきょう」が海外で話題になったことがあるが、それと同じ現象は世界共通の現象なのだろうか。

体調の悪さは相変わらず。オートミールと少しだけソーセージを食べるのが精一杯。8時40分に出発だ。今日はナンガパルバットの展望ポイントまでの往復なので気楽だ。池塘まで下り、そこを横切って森に入る。しばらく緩やかな登りを続けると、一気に眼前の展望が拡がり、アブレーションバレーのモレーン上に出る。

ライコート氷河の末端だ。氷の割れ目から勢いよく白濁した水が流れ出し、流れを集めて轟々と川へと変身していく。氷河の水を集めた川は白濁している。おそらく氷河が下流に押し出される過程で岩や瓦礫を砕き、包みながら下流に来て氷解するので白濁してしまうのだろう。日本の河川のように透明な水はほとんど期待できない。

氷河の奥にはナンガパルバット山群が屏風上に屹立している。ライコート氷河の左岸にそって高度を稼いでいく。10時20分左手に集落が続いて久しぶりに生活感のある現地の人々の動きが目に入った。彼らは我々を好奇心の目で見ているように見えた。さらに進むと右手に広々とした草地が拡がっていて、牛、山羊などが放牧されている。夏村のビヤール(3500M)だ。ビヤールは現地語で「テル=放牧地」と言われる広々とした草地だ。何軒かの番屋がある。後ろを振り返ると僅かにラカポシ(7788M)やハラモシ(7409M)などの山々も望める。途中から一緒していた現地人(彼が何故居るのか関係を理解出来なかったが)が一つの番屋に案内してくれた。そこでチャイを飲んで一息入れる。さすがにじっとしていると肌寒い。

昼ご飯を頼んで10時50分出発して展望ポイントを目指す。ビヤールを出ると景色が一転し、樹林から低木と草の世界になる。今までのようなハイキングというより急な登りになる。 男の子が鶏を抱えて下りてきた。鶏は直感的に危険を感じているのだろうバタバタと暴れている。ふと嫌な連想をしてしまう。さっきの番屋で昼ご飯にチキンカレーを注文したのを思い出した。その材料として調達されたのは間違いない。心を痛めたものの当地では当たり前のことだが。
3620M地点を通過、一層急な登りになる。さすがに高度のせいもあり息が上がる。1時に展望地点に着く。そこにはすでに何人かのヨーロッパ系の白人が寛いでいた。3900M地点からの眺望は正直言って新たな感動を呼ぶほどもなく、単なる達成感でしかなかった。イルファン君は自慢の縦笛を持ち出し吹き始めた。かなりの腕前にみんなから拍手を受ける。何気なく寂しげな、一寸憂いを秘めた響きは心に滲みてくる。ネパールもそうだったが、この一帯は笛の世界だ。手軽に作れるし、彼らの心象を伝えるのには絶妙なのだろう。


しばらく横になって日向ぼっこを楽しんでいると声が掛かり、そこにいる各国から来た人々と歌の交換する羽目になる。歌詞もうろ覚え、息も上がっているのに、と思いながら、彼らからみて日本らしいと思って貰えそうな「サクラ」を歌うことにした。

一時の寛ぎのあと、展望地を後にして下山を開始する。1時40分にはあっという間に3600M地点にまで下りる。下りはあっという間だ。2時半にはさっきの番屋に着く。すでにご飯は用意されていてチキンカリー、茹でた黄色いジャガイモと濃厚なチキンスープが用意された。しかし、相変わらず食欲が全くなく手をつけることが出来なかった。

これからはなだらかな下りをお喋りしながら歩く。気がつくと二人の少年が後先になりながらついてくる。一人は親戚の家に来ている少年、多少の英語が話せる育ちの良さが見え隠れする。上流階級の家柄だそうだ。もう一人は現地人の少年。いたずらっ子のような一寸はにかみやな少年だった。

あちこちにあるキノコを摘んでは持ってくる。マッシュルームなのか擬きなのか、話題になる。ガイドのイルファン君が彼らとのやり取りをしながら国歌とか学校で必ず歌う歌を聞きたいと云ったが、国歌さえ知らない。イルファン君によれば原理イスラム教エリアでは国家とか他の地方への関心はほとんど無く、興味の対象は現地のことだけ。それが問題なんだ、とイスラマバードの大学を卒業したインテリ青年である彼は由々しき問題だと言っていた。大きなすみれ色の花が咲いている。大きな花びらを広げて可憐に咲いている。プナールと言われる花だ。ポツンと咲いている姿がちょっともの侘びしい。

対岸に目をやると草に覆われた一帯があり、そこには僅かな集落もある。対岸の右岸沿いにナンガパルバットを眺望するルートがあるそうだ。タフな割には眺望がそれほど素晴らしいと言うことではない。ライコート氷河と別れてファアメド(Fairy Medowの略)を目指す。4時40分に着く。キャンプ地では韓国人によるバーベキュウ・キャンプの準備が行われている。薪を重ねその上に丸裸になった山羊が乗せられて準備万端だ。ますます騒々しい様子に怒りを覚えるがいかんともしようがない。

相変わらずの体調にほとんど食事もせずにシュラフに潜る。静かに眠りに入っていった。


インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑥ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月1日(水)フェアリーメドーからタリシンへ 

5時半に起床。雲が垂れ込めてナンガパルバットのピークは望めない。今日はチラスまで下山したあと、ナンガパルバット南面を眺望する為に車でタリシンまで移動するだけの楽な行程だ。ロッジ周辺では相変わらず韓国人の一団が右に左に動き回り、下山の準備を始めている。喧噪は相変わらず。食欲は戻らず軽く口にするだけで7時10分ロッジを出発する。雲は重く垂れ込め今にも雨が降りそうな気配だ。

登りのコースを右手に見ながら、帰路はロッジが建ち並ぶフラットなルートをとる。懸念した小雨が降り始めるが雨具を付けるほどではない。しばらく行くとそそりたつ崖に刻まれた山道を一気の下りで急降下が終わると往路のルートと合流する。7時50分往路で一息入れた小屋の前を通過。

ルートはなだらかな車一台分の幅があり、ジープが走れるように整備された状態になっているが、ガイドの説明ではフェアメドまでの道路開発の一端の道だそうだ。しかしこの計画は一部開発が進んだ段階で地元からの猛烈な反対で頓挫しているとのことだった。確かに道路が開通するとジープの運転手には仕事が増えるが、多くのポーターたちには失業が待っている。観光地化と自然破壊、それに伴う地域社会へのインパクトはどこでも共通した問題を提起する。感動は苦労して得るものと思う立場から言えば道路開発には抵抗を感じる。日本でも室堂でハイヒール姿を見るとき、せっかくの自然豊かな立山一帯の神秘的な雰囲気は過去の思い出話になってしまった。楽をして喜びを得る、“喜びも金次第”は単なる快楽でしかない。辛い思いを越えて得た喜びの大きさは他では得られない感動なのだ。それは経験したものにしか理解できない価値ではあるのだが・・・。ジープは別としてホースライディングで登る人もいるようだ。費用は800ルピー。“楽”そうに思えるが馬で登るのは歩くより辛そうな印象だからそれはそれと言うことか。
樹林の中を歩いていたが、木々がまだらになり、岩が露出しはじめる。小さな川の向こうにジープが数台待機しているのが見えた。9時にはジープに乗り込むタトーに着いた。

行きしなに水晶をくれた無骨なポーターが再び水晶を差し出してきた。再びの行動に理解が及ばず、とはいえ断ることも不自然だったので喜んで頂くことにした。ニコッと笑った顔が今でも思い出されるけど、彼の行動に何が託されていたのか今でも理解できないままに帰ってしまったことに忸怩たる思いが残っている。言葉と文化を越えられなかった、そんな自分に腹立たしさが過ぎった。

彼と別れて往路で運転してくれた運転手のジープに乗り込む。ガイドご指名だから命がけのドライブも安心だ、と言っていた。一人の地元青年も乗り込んで一緒する。

しばらくは少しずつの下りを右手に集落を見ながらのんびりと下っていく。道は相変わらず悪路そのもの、右に左に上に下に激しく揺れるが、往路の時ほど緊張感はない。経験するという意味がよく分かる。恐怖は経験で軽減されるし、それをどれだけ経験したのかが人生を変えることにもなるのだろう。いよいよ命がけの断崖絶壁に入る。

何度か車を止めて写真を撮る。しかしどう撮ってもこの迫力は画像には出来ない。一台しか通過できない道で登ってきた車と行き違う羽目になる。運転手は意図も容易くバックし始めた。しっかり後ろ見ているんですか、って警告したいほど無造作だ。ようやく行き違い出来る場所にたどり着き対向車を見送る。白人が足を投げ出しふんぞり返って乗っていた。意味無くなにか不遜な嫌悪感を感じた白人だったが。

断崖絶壁に沿ってヘアピンカーブの連続を巧みに走る。遠くにインダスの源流が見えてきた。瓦礫の中をトラバースしながら高度を下げていく。10時ライコート橋の袂にあるジープの基地に着く。さすがにまさかは想定していなかったものの無事にドライブが終了して、身体の力が崩れるように落ちていくのを実感した。喉もからからだ。

すぐにタリシンに向かって車に乗る。ラホールから一緒してくれたドライバーが交代し新しいドライバーになる。車はやはりトヨエース。タリシンまではインダス川を遡行しタリチまでカラコルム街道を進む。出発して直ぐにライコート橋を渡り右岸に移る。パキスタンでは橋の上からの撮影は法律で禁止されている。どう考えても衛星監視の時代に禁止とは時代錯誤と思えるのだが、残念ながらすばらしい景観を納めることが出来なかった。インダス川には蕩々と見事な流れがあるのだが、両岸にそして周辺の山にも一木一草生えない河岸砂漠が続く。時折見事に飾り立てたトラックが行き交う。朝方山の上では雲が垂れ込めていたが、すっかり雲もなくなり灼熱の太陽が降りそそいでいる。表は40℃を超す世界だ。後ろ右手に望めるはずのナンガパルバットのピークは雲の中で残念ながら眺望することは出来ない。タリチを通過し10時40分カラコルム街道を離れてタリシンへ向かう。

インダス川を再び左岸に渡り、アストール川の左岸をヘアピンカーブの道を唸りをあげて上っていく。この一帯はアストール地方中心地のアストールに向かう道でもあり、住民も多いので整備が進んでいる。舗装されているので快適なドライブだ。

11時20分1700M地点にあるゲートを通過する。周囲の景観もV字峡から河岸には多少の広がりのある穏やかなエリアに変化してきた。少しずつ緑も目に入るようになり、人家もまばらだけど点在する。

12時20分アストールの街に到着。街にはどこから来たのか人人の行き来が増える。軒を並べて店が続く。街道から左に入った先のレストランに入る。街の雰囲気に比べると小綺麗なレストランだ。外気温は40℃を超しているだろう。慣れたとはいえ肌がじりじりと焦げる感じだ。この一帯はフン族のエリア。アーリア系が多いパキスタンでは少数民族で、日本人あるいは中国人に似た顔だ。 レストランでは10数人の現地人の一団が会食をしている。見るからにインテリ風のホストを中心に全員が男だけの一団だ。現地の行政に関わる関係者だと聞き宜なるかな、と納得した。
バテーという鳥がこの一帯の山奥に住んでいるそうだ。朱色の首に冠を持った大変美しい鳥だが、希少鳥獣として保護されているということで観察することはほとんど不可能とのことだった。

アストールはフンザと並ぶパキスタン北部の中心地、両地方に共通することは教育熱心なエリアだということだ。スンニ派が支配しているエリアに比べてイスラム教への教義だけでなく、教養を重んじる風土が教育熱に繋がり、知識人を多く排出している。特にこのエリアは政治分野に関わっている人が多い。以前はこの地方はギルギッドの一部でしかなかったが、今日では独立した地方として一つのまとまりを作っている。人々の顔立ちにもチラスとは違って穏やかさと優しさが漂っている。

数日後に訪れる北部のもう一つの中心地フンザはイスマイリア派を信仰する地域で、当地と同様教育に熱心な地方だ。アレキサンダーの侵攻時に留まったギリシャ系の部族もいるともいわれているが真偽のほどは分からない。人種的にはオールパキスタンから見ると少数部族が中心だ。そう言えば日本語を話せるパキスタン人のほとんどがフンザ出身。私のガイドもその一人で観光に関わっている人が多い。

2時に出発する。3時には右岸に渡る。アストール川は白濁していて、氷河の水であることが分かる。3時10分2560M地点を通過、前方に氷河の下部が望めた。残念ながらナンガパルバットのピークは稜線の向こうだし、天候も良くないので山容は望めない。俄に狭い谷間から広がりのある平坦地に出る。久しぶりの集落でチューリットと呼ばれる。前方には緑豊かな集落が確認できたが、そこが今日の宿泊地タリシンだ。所々に国旗が翻っている場所があったが、カシミール地方でのインド戦で戦死した軍人の墓だそうだ。あちこちにそんな場所があった。今でこそカシミールは暫定的に休戦状態なので凄惨な状況から脱しているが、いつ何時勃発するか分からない不安定なエリアがあるのは地続きで国境を持たない日本人にとっては理解が難しい政治的状況だ。

当地方はアーリア系の部族だ。ナンガパルバットのノースフェース(チラス)地方はイスラム原理主義を信仰し教条的な地方だったが、サウスフェース地方は穏やかで優しい性格の人々、外者にとってはホッとする雰囲気を持っている。同じ山の反対側だけでこれだけ民族色に違いがあるのにはびっくりした。

3時半にはタリシンの宿に着く。ロッジは小綺麗な2階建て。女性はブルカを着けていない。男性と行き違うときには背を向けてしゃがみ込むぐらい、必要なときにしかブルカは着けないそうだ。

庭には二つのテントが張られ、一つには品のいい男性が出入りしていた。彼は巡回裁判官だそうだ。テント持参で車を運転して各地を移動し紛争を解決している。彼の手で数多くのいざこざが解決しているならいいが、部族、宗派がこれだけ入り組んでいる地域での紛争解決はよほど根気のいる作業ではと想像された。

イスラム教ではモハンメドが予言者として今日のイスラム教の原点になっているが、その当時は女性が虐待され人間扱いされていない現状を解決する為に女性にブルカを被らせ、女性の人権を守る意図でルール化された、と聞く。しかし現在は本来の意図とは逆に女性の人権を抑圧する道具と化している。深くは理解していないが、ガイドは「ジハード」も本来の意図を歪曲し、教養のない人々にイスラム教のために命を捧げれば快楽(金に困らない、酒飲み放題の世界)に浸れる、という幻想を与えて自爆テロに誘導していると主張する。この考えは日本人の理解とは著しく異なることだ。このギャップを埋めるためにはもっともっと現地事情を理解し、その背景にある宗教的思考を探る努力をしなければならない。与えられた情報だけで理解するのではなく、自分の努力で事実を追求する必要性を切実に実感した。


インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑦ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月2日(木)タリシンからヘッリンコッファー(ポーランドBC)へ

11435632.jpg 5時半起床。曇りの朝、今日もナンガパルバットの山稜は望むことが出来ない。見えるのはタリシン氷河の末端だ。天気が良ければ前方右手にチョングラ(6830M)左手にライコート(7070M)が望めるはず。そしてその稜線越しにナンガパルバットのピークが覗いているはずだった。まぁ、ここからではそもそもナンガパルバットの全貌は望めない場所なので、楽しみはこれからのヘッリンコッファー、ラトボでの眺望に期待して出発の準備を始める。庭先にあるテントに朝食が運ばれる。今日も食欲がない。スープなど流動食系を口にしてしのぐ。庭先には十人近い現地の人たちが右に左に動いている。我々の荷物を小分けして3頭のロバ(パキスタン語ではガラ-現地語ではジャクーン)とポーターがつくようだ。ロバは澄んだ大きい目を瞬きもせずじっと荷物が背に乗るのを気にせず草を食んでいる。餌が十分でないのか骨張った骨格を見ると荷物を背負わせるのが気の毒なくらいだ。  

11435659.jpg 7時50分出発する。ロッジは街の外れ(手前)にあった。白人達で賑わう数件のロッジを見やりながらしばらく進むと、車道から分かれて右手の山道を堤防のようにそそり立ったモレーンをジグザクに登る。モレーンは下から見るとまるで巨大なロックヒルダムの堤防にも見える壁だ。一気の急登に呼吸調整に手間取るが、あっという間にモレーンの頂点に達する。一息入れながら振り返るとタリシンの街並みが、左手前方下には車道が延びてさらに奥地へと続く。そして前方には緑豊かな集落、ルパルの村が見える。

11435672.jpg 11435697.jpg ここからタリシン氷河のトラバースになる。瓦礫が無造作に並んでいるなかを右に左に道を確認しながら先に進む。トラバースを終えて再びモレーンを登ると、見事に緑豊かで緩やかに傾斜した農耕地が拡がっている。色とりどりの花が咲き誇っている。耕作地を左右に見ながら緩やかな上りが続く。人家も疎らに点在し、人の行き来もある。 冬には2Mを超す雪が積もるそうだ。ジュリパルと呼ばれる檜に似た木や松が道沿いに生えている。

11435709.jpg 10時には数件の雑貨屋もある集落の中心地をゆっくりのんびりと先に進む。3135Mの高度地点を通過する。日は差すものの残念ながらナンガパルバットの勇姿は見られない。何の変哲もない道がしばらく続く。12時10分美しい池塘の右手を通る。花も咲く池塘には小さな蛙が岩の上に飛びついたり、人の気配を感じて池塘に飛び込むものあり、久しぶりに動きのある世界に接する感動をもった。殺風景な中に突然の長閑な空間は天国的な寛ぎを与えてくれる。

11435721.jpg再び殺風景な瓦礫の中を進む。12時過ぎに今日の幕営地ヘッリンコッファーに着く。左手にはモレーンがそそり立ち、その先にはバジン氷河がある。氷河はナンガパルバット南面直下とライコート直下から始まり合流して作られている。ここはポーランドBCとも呼ばれ、ポーランド隊がナンガパルバット・アタックのした時のBCになったところ。

天空は重い雲に覆われて日差しが遮られているので肌寒い。ヘッリンコッファーからのナンガパルバット眺望は期待していたのだが無念と言うほか無い。左手のモレーンに守れるようにして草地が延びている。その先には瓦礫の連続だ。

11435731.jpgポ-ターが幕営の準備をしてくれている間、寒さを凌ぐためにウインドブレーカーを羽織って岩に腰掛けて待つ。コックが昼ご飯の用意をしてくれた。今日の昼飯はラーメンとビスケット、缶詰のパイナップルそしてチャイ。

DSC_2282 b.jpg しばらくテントに入って昼寝をする。3時頃だろうか、ガイドのイルファン君からタルバガン(モンゴルモーマット)がいますよ、と声がかかる。そう言えばさっきから激しく鋭いキーンキーンという声が谷間に木霊していた。それがタルバガンの声だと聞いた。カメラを持ってタルバガンを追うことにする。モレーンに沿って上に向かう。鳴き声は右手の岩陰からだ。と思っていると前方からも、しばらくするとあちこちから聞こえてくる。ここには相当数のタルバガンがいるのは確認できた。しかし、小さい動物なので目を凝らしても確認できない。ところがイルファン君はあそこあそこと指さす。都会生活に慣らされた私には焦点を絞っても見つけることが出来ない。視力の差は改めて動物としての機能後退を自覚する羽目になった。タルバガンは人気を感じると岩穴に入り込んでしまう。被写体にするには余りにも小さすぎるのでなかなか撮影シーンをつかむことが出来ない。イルファン君がひとりだけだと近くまで行けると言うので、カメラを彼に託して撮影を頼む。ようやく何枚かの写真の撮影に成功。

時々雷鳴が聞こえていた。しかし雷が近づくというわけでもなく、雨が降るようにも思えない。イルファン君に様子を聞くと、なんと雷鳴に聞こえた音は雪崩の音ですよ、と説明を受ける。轟音の方に目をやると白煙を次々と引き起こしながら竜が走るように雪崩が起きていた。雪崩が雪崩を呼び、ますます大きな雪の川を作っていく。近くで目撃しようとモレーン沿いに上に登ってみる。再び轟音とともに白煙が糸を引くようにこっちへ向かってくる。まるで3D映画を見ている感じだ。最後に氷河に落ち込んで轟音は消えていくのだが、氷河に落ち込んだ勢いがあまって眼前のモレーンの壁を乗り越えて雪が飛沫となって飛んできた。突然のスコールにびっくりする間もなく、カメラのレンズにも飛沫が当たり慌ててカメラを背中に隠す。 自然の脅威を実感する。高名な登山家を何人も飲み込んだ山だ。ナンガパルバットが8000M級の山でも最も恐れられている一つであることがよく分かる光景だった。その後もひっきりなしに轟音とともにあちこちで白煙が立ち上り、一気に下に走り落ちる雪崩は日が落ちるまで続いた。

テントに戻り夕ご飯になる。先ほどまでポーターが運んできた鶏が2羽テントの周りを餌を食むでいたが、帰ってみると一羽になっていた。散歩に行っている間に絞めたのだろう。案の定夕ご飯には鶏肉とスープが出てきた。ヒマラヤのトレッキングではそんなことはごくありふれたことで慣れているとはいえやはり申し訳ない気持ちになってしまう。

雲がますます重く垂れ込めてきて霧雨が降り始めた。ポーター達は近くにある大岩に囲まれたスペースが寝床だ。屋根もないところでわずかの雨具にくるまって寝るそうだ。薪を集めて焚き火をしながら輪を作って踊りが始まる。表情豊かに歌と踊り。彼らの数少ない息抜きであり憩いなのだろう。懸念はあたり夜半から雨音も激しく、テントに雨水が流れ込まないのかハラハラし続けた。そんな深い眠りにつけなかったこともあり、ポーター達が雨をどんな風に凌いでいるのか気がかりになった。雨音と混じり彼らの声が聞こえてきたが、それが何を意味するのか、何をしているのか想像もつかず、といって10人近いポーター達を収容するほど広くない(2人用テント)ので声をかける術もなかった。まんじりも出来ない夜が過ぎていった。


インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑧ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月3日(金)ヘッリンコッファーからラトボへ

DSC_2261a.jpg 幸い激しい雨も朝方には上がり、5時20分に起きる。テントから出ると雲間からナンガパルバットのピークが一瞬覘くが、直ぐに雲に隠れてしまう。安定しない気流の流れだ。 草地ではゾッキョ(現地ではペッパーと呼ばれている)が長閑に草を食んでいる。 8時20分出発。しばらく歩くとバジン氷河をトラバースする。氷河はどこでも歩きにくい。時々刻々地形が変化する動きに瓦礫、土砂が折り重なり作られたコースは否が応でも右に左に振られながら約50分かけて渡り終える。

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モレーンを越えると歩きやすいルートに変わる。9時50分眼下に緑豊かな谷間が広がる。山の斜面を斜めにジグザクに降りる。トットミロと呼ばれている放牧地だ。下りきると珍しく澄んだ水が小さな川となって流れている。澄んでいるのは伏流水だからなのだろう。草地には家畜が放牧されていた。歩きやすいようにおかれた石をたどって対岸に渡る。

R0011438a.jpg 石の形状が凸凹しているのでバランスを失いそうになったが、ストックのおかげで無事に落水することもなく渡りきる。この美しい緑に溢れた草原も8月を過ぎると一気に枯れていくそうだ。短い夏を一気に満喫するような見事な美しさだ。
草地に踏み込まれた家畜道を進む。以前は池塘だったのだろうか、踏みしめるたびにクッションがきいて心地よい歩みになる。草地が終わり、ほとんど水平に近い道をしばらく進む。11時過ぎには再び草地に出る。左手にはナンガパルバットの山稜が綺麗に見えるようになる。右手正面の岩陵に沿ってメスナー・ルートが頂上に続く。そのずうっと左手稜線の裏側に韓国ルートがある。見るからにメスナールートは厳しそうだ。云うまでもなくメスナーはアルパインスタイルの登山を超える無酸素登攀を確立した超人登山家だ。超困難なルパール壁を無酸素で初登頂したが、弟を失っている。 ピークハントはベストが5,6月。今年はまだ誰も登頂を果たしていないそうだ。日本人のグループも以前ヘッリンコッファーから登頂を目指したが残念ながらBC3地点までで雪崩に非業の死を遂げた。そのメモリアルが残されている。

ナンガパルバットをアラウンドするルートもあるそうだ。このままこのルートを進めば、4000Mを超える峠を2カ所越してフェリメドに至る。一周するのには18日間の行程だ。日本を出るまでは周回するルートがあることを知らなかったため、南面と北面をそれぞれ見るルートにしたが、周回するのも楽しいルートとして話題になっていたら今回の計画も違ったものになっていたかもしれない。

11時にはラトボに到着する。ここはルパル(3530M)の夏村で家畜の放牧地になっている。左手に今までにない広大な草地が拡がり、右手前方斜面に沿うようにボツンポツンと管理小屋が点在している。この草地が今日のテント場になる。右手にはナンガパルバットのピークが雲間から時々顔を覗かせ始めた。山肌には純白の雪が積もっている。薄汚れた雪景色が夏山と思っていたが昨晩の悪天で新雪が積もったのだろう。燦々と太陽の日差しを受けて白銀の燦めきが眩しい。日は差しているが、3000Mを超しているので肌寒い。ナシーヌさん達は我々より早く到着して幕営もし、昼飯の準備をしてくれていた。今日の行程はここで全て終了、のんびりした行程だった。午後はゆっくりあたりを散策することにする。

昼飯の準備が出来るまで右手上にある氷河湖に行く。右手の急斜面を一気に登ると眼下に氷河湖が視界に入る。まさにモレーンが突堤の形で水を堰き止めているのだ。ヒマラヤでは各地にある氷河湖が温暖化の影響で水量が増し、堤防役を果たしているモレーンが水圧に耐えられなくなり決壊するリスクが高まっていると言われている。確かヒマラヤのどこかですでに洪水で多くの死者と集落が破壊されたというニュースを聞いたことを思い出した。日本の学者がエベレスト・カラパタールでその研究をしていると聞いたこともある。きっとここでも同じリスクがあるだろう。

氷河湖は現地語でジールと呼ばれている。氷河湖特有の白濁した水に満たされている。山羊を連れた子供達が不思議そうな顔をして目の前を通り過ぎていった。

戻って昼ご飯をすませ、一息入れてから夏村に行ってみた。広々とした草地を進むと子供、青年達がクリケットに夢中になっている。野球のルーツとは聞いたが、想像もつかないゲーム展開だった。イルファン君は大学時代に嗜んだと言うことで早速仲間入り。さすがに昔取った杵柄、お見事なプレーぶりに地元の連中は唖然というか感心していた。

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草地の先には左手に真っ白な雪に覆われた山(トシャイン=63154m)そして真っ正面にも大きなピークが太陽を背に輝いている。右手にはナンガパルバットのピークが足早に通り過ぎる雲間からのぞく。


DSC_3731a.jpg 草地に携帯椅子を出してのんびり日向ぼっこ。雲の流れにナンガパルバットの姿が一刻一刻変わって行く風景はスクリーンに映し出されるシーンとして無意識の中に入り込んでいった。ふと気がつくと足下には太陽の日差しが届かなくなり肌寒さが増していた。5時半西の稜線上から強烈なエネルギーを送り続けた太陽が去っていく。その一瞬の輝きはいつも美しいものだ。

連日楽な行為になっているが、テントに入ると睡魔は簡単に襲ってくる。今晩は満天の星の中安心して熟睡できそうだ。


インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑨ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月4日(土)ラトボから再びタリシンへ
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5時に起床。すでに山稜越しに太陽の光が差している。黒々とした稜線の向こうに緋色の朝日が輝くにはもう少しの時間がかかる。しかし朝方の変化は早い。あっという間に稜線を越えてくる白い雲が紅色に色づいてくる。日の出だ。今日は雲が多少流れているけれど、ナンガパルバットのピークもくっきりと太陽光を後ろに受けて聳え立っている。
ポーターたちは手慣れたテントの撤収、荷造りを終えて7時10分には出発だ。今日は一気にタリシンまでの下り。往き二日行程を一日で下りるわけだが、多少の起伏はあるが大した行程ではない。あっという間に広大な草地、池塘を通り抜け8時には小川を徒渉する。左斜面に沿ってジグザグの登りになる。その先はバジン氷河のモレーンへのダウン、そしてアップとなる。
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山の景色は原則朝早くが一番と言われるが、今日もその例に漏れずナンガパルバットのピークは徐々に雲の中に隠れていく。ここまで来るとライコートとナンガパルバットにつながる稜線はくっきり見えるが、肝心なピークはすでにブルカを被ってしまった。 氷河は足下が悪く、大きな岩の間を縫ってあるいは岩を乗り越えたり、右往左往しながら9時には渡りきる。そして再び反対側にあるモレーンを越えて平坦な山道になる。
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9時半にヘッリンコッファーに到着。荷物を担いでくれているロバがなにやらもがきながらの様子。何か異常があるのかと目をやると背中の両側にバランス良く積み込んでいたはずの荷物が片側に傾斜して歩行困難になっているようだ。ただでさえやせた体躯に頑張っているロバ君を快適な状態にして欲しいと思っていると、ロバ使いが足を折らせて佇ませた。そして背中の荷物のバランスを調整し、再び立ち上がらせて先に進み出した。ようやく自分もロバのペースに惑わされることなく前進できる。 9時50分右手に池塘を見ながら通過。パキスタンの山とは思えない緑溢れる景観に心が洗われる。右手前方に点々と人家が見える。そこはルパルの上村だ。道はいつの間にかジープが走れるほどの広さに整備されている。
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11時15分ルパルの下村にある一軒の人家に招かれた。そこはタリシンからポーター長として付き添ってくれた人の親戚の家らしい。靴を脱いで10畳ぐらいある接客ルームに案内される。絨毯が敷き詰められた小綺麗な部屋だ。そこで団欒をしていた人たちは蹴散らされるようにそこを去っていく。せっかくの団欒をぶち壊して割り込むのに気が引けたが、遠慮するなと強引に中に入った。壁に沿って座布団のようなものに座り、くつろぐ。
ここは商売で提供されたわけではないので、昼ご飯が出るわけではなく、チャイとビスケットが用意された。あまり食欲もあるわけでもないのでそれで十分だったが。小学生から中学生ぐらいの5人は好奇心があるのだろう、一緒に座ってそれぞれの個性を出しながらこっちを観察していた。歩いている時は暑く汗ばんでいたが、日差しを遮られている部屋はひんやりと快適だ。
12時半お世話になった家を出て、タリシンへ向かう。ここからはさらにのんびりとした道の連続だ。ここからはナンガパルバットのピークは稜線の陰になり、チョングラとその氷河が見えるだけだ。だんだん雲も厚くなってきた。1時にはタリシン氷河のモレーンに着く。最後の悪路だ。氷河を渡りきると一気の下りが始まる。眼下にはタリシンの集落がそして人々の行き来が目に入る。ジグザクの下りを一気に下りればもう宿はすぐだ。
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集落に入ったすぐ右手でサッカーの試合が盛り上がっていた。話を聞くと年に何回かの集落ごとの対抗戦が行われていた。その真っ最中だ。旗を振ったり、競り合いにブーイングがあったり、どこでも同じ光景とはいえこんな僻地でも都会同様な様相にびっくりした。 集落の一番端にあるロッジに2時20分到着する。ロッジで寛いでいると警察の車がけたたましく上に向かって走っていった。さっきのサッカー試合がもつれにもつれて選手同士のぶつかり合いになり村人同志の殴り合いにまで発展し警察沙汰になったそうだ。幸い怪我人が出なかったのでホッとしたが、世界各地でも起こることがここでも起きている。日本人が特別なのか、違和感を感じたシーンだった。
すっかり山は雲の中になり、何も見えない。時々雲間から稜線が覗くが視界不良だ。しかし振り返ってみると、今回も肝心なナンガパルバット北面、南面のビューポイントではいずれも天候に恵まれて望めたのは幸いだった。今まで何回かヒマラヤの山々を望むトレッキングを重ねてきたが、幸い前回のカンチェンジュンガが悪天のため至近での眺望が出来なかった以外は全て完璧な景観を満喫できている。日頃の心がけと言いたいが、この幸運を感謝したい。
庭には二つのテントが張られ、一つには到着したときにいた裁判官が未だ滞在中だった。
部屋につながる階段下で白人のカップルが困惑気に座ってなにやら話し合っていた。声をかけたらフランス・シャモニーから来た若者だった。彼らは教師で、どういう関係かは余計なお世話としてガイドもポーターも付けずに全装備を背に担ぎトレッキングをしている。その最中に女性が体調を壊し、嘔吐、発熱そして下痢ですっかり元気を失っていた。男性から薬はないかと聞かれ、持ち合わせの抗生物質、解熱剤、下痢止めを数日分渡す。俄医者(?)、偽医者といえども何とか役に立てればとの思いでした行為。無事に彼女の健康が戻ればいいのだが・・・・。
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庭先にあるテントでナシ-ヌさん手作りの夕ご飯を食べて部屋に戻る。喉の痛みがちょっと気にかかる。風邪が悪化しなければいいのだが。横になるとあっという間に熟睡の世界に。

インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑩ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月5日(日)タリシンからカリマバードへ
DSC_2411b.jpg今日はフンザ・カリマバードまで車での移動になる。5時半に起床。快晴ではないが、目の前には右手正面にチョングラがそこから稜線が伸びてライコートに、その稜線越しにナンガパルバットのレンジのピークが覗いている。早々に朝ご飯を終えて出発の準備だ。荷物を整理しパッキング、いつも忘れ物には気をつけるのだが部屋を去る瞬間はちょっと緊張が走る。
階下では昨日会ったフランス人カップルが出発の準備をしていた。これからトレッキングに出かけるのかと聞くと、薬で回復傾向にあるけど彼女の体調がいまいちなので下山することにしたとのこと。ところが今日は日曜日なので乗り合いジープの運行がないので途方に暮れていた。ヒッチハイクで下に下りる車をあてにしているようだ。そうなら是非一緒しましょうと、声をかけて一緒することになる。
7時20分出発。しばらくは悪路の連続で速度はのろのろ運転になる。この一帯は柳が繁茂している。その柳の幹は人間の背丈まで布に覆われているか、白いペンキが塗られている。柳の幹はロバの大好物で放っておくと食べてしまう、それを防御するための方策だといっていた。道路脇には電信柱が立っているが、肝心の電線が張られていない。現地の人は今年には通電すると毎年毎年期待しているけど、空振りの連続らしい。
8時45分舗装された国道に合流して、ようやくくつろげる移動になる。我々はアストールの町を通らずにバイパスを行くので市内に行く道との分岐点でフランス人を下ろして別れる。我々はショートカットの道でギルギッドに向かったが、生憎少し行った先で落石が道路を塞いていたため、やむなく折り返して元の道に戻る。先に下りたフランス人たちはヒッチハイクが出来ずにまだ道路端で車を待っていたので、再びピックアップしてアストールの町に向かう。9時40分アストールの市街地でフランス人達を下ろし前進する。
実は今回での最大のトラブルを経験する羽目になった。2台のカメラを持参し、一台は自分がもう一台をポーターが持ってトレッキングをするのが常なのだが、昨日手元に戻ってきたカメラの内部が水滴で漏電をしていて使用不能になっていた。結局は責任の所在がはっきり出来ないまま終わったのだが、ネパールだと私の近くでガイドがしっかり所持し、いつでもスタンバイしてくれている。当地では私から完全に離れたところで移動してしまうので使いたい時には使えず、目の行き届かないところでトラブルが発生してしまったようだ。確かに当地へ入るトレッカーの数はネパールに比べて圧倒的に少なく、ガイド、ポーターたちのスキルには大きな違いが感じられ、トレッキング中に起きるあらゆるトラブルに対してのリスク管理に大きな違いがありそうだ。
10時半検問があった。ここがアストール地方からギルギッドへの境界地点、標高は1760mだ。道はヘアピンの連続となり高度を一気に下げていく。11時前には眼下にインダス川の灰色の流れが目に入る。橋を渡るとそこはカラコルム街道、右折してギルギッド、そしてその先にあるフンザへ向かう。
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11時20分シャグロットを過ぎるとヒマラヤ山脈、ヒンドゥークシュ山脈そしてカラコルム山脈の合流点がある。インダス川の左岸(対岸)はヒマラヤ、右岸がヒンドゥークシュ山脈、前方がカラコルム山脈になる。モニュメントの前で一旦停止し一望する。インダス川はそこで東に向きを変えていく。我々はギルギット川に沿って北上する。インダスに沿って右手に折れるとスッカルドに向かう道になる。インダス川はスッカルドそしてカシミールを経由してチベットに源を遡る。スッカルドはK2を目指すトレッカーには入山の基地になる町。そこからバルトロ氷河に入り、奥に進むと8000Mを超す4峰(k2、ブロードピーク、ガッシャーブルムⅠ、Ⅱ)が望める素晴らしいトレッキングのメッカの一つだ。我々はギルギット川左手に沿って上流に向かう。
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12時10分に検問を通過すると道が分岐し、左手がギルギットの市街地に、右手に往くとフンザその先は中国ウイグル自治区につながるカラコルム街道となる。昼食をとるためにギルギッドの市街地にあるホテルに向かう。砂漠にあるオアシスのように突然と沸いた町、北部地区の最大都市の威容を誇っている。ここには飛行場もあってイスラマバードとのフライトがあるが、しばしば気象に左右されて安定的な運行が保障されないそうだ。ここまで飛行機を使えばイスラマバードから650KM、1時間弱のフライトで来ることが出来たのだが、キャンセルのリスクを避けて今回は陸路で移動することになった。
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右手に流れるギルギット川の対岸の山腹には「ウエルカム・アワー・ハジール・イマーム」と大きな文字が刻まれている。イスマイリア派の指導者アガ・カーンを崇める掲示だ。その右の稜線越しにラカポシ(7788m)が望める。ギルギット川の北・対岸はカラコルム山脈で、ナガール地方そしてその北にはフンザが位置する。我々の来た後方、フンザ川の対岸はスッカルド地方でカラコルム山脈の延長にある。そしてその先には世界第2位の高峰K2が聳え立っているところだ。宗教的にはナガールはシーア派が多く占め、フンザ方面にはイスマイリア派が、当地ギルギットではスンニ派も含めた3派が共存しいてる社会になっている。まさに北部地方の中心として、そして中国とも地理的に近くパキスタンの要衝となっている。人口は6万人、アーリア系を中心にして、パシュツーン人やフンザ、カシミールからも多くの人が入り込んだ複雑な構成になっている。
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ギルギット最高級クラスの英国風のセレナホテルで昼ご飯となる。ホテルは市街地から左手に急坂を登った閑静なところにある。見るからにシックな高級感はパキスタン入国以来はじめての経験だ。マトンのフライ、鱒のフライ、サラダなどブッヒェスタイルのランチだったがきわめて満足のいく美味しい食事だ。数組の白人のグループ、南部方面から来ているリッチなパキスタン人などが一緒だった。因みに宿泊料を確認したところ日本円にして1万円弱とのことだ。ホテルのショップでスカーフの買い物を試みた。店主の言い値は40ドルだったが、ガイドの通じて値段交渉をした結果、30ドルで手打ちをした。値決めはやりとりの苦手な日本人にとって苦痛な作業ではあるが、地方地方の慣習を知れば克服できる筈。ガイドによれば言い値の7掛けから8掛けというのが相場だそうだ。
2時前に出発。再び来た道を戻り、すぐにカラコルム街道に合流する。そこを左手に曲がりフンザ川に向かう。橋の手前で検問所があり、橋を渡るとギルギットとはお別れになる。しばらく行くと街道筋には柳の木が立ち並ぶ下町風の商店街があるダニオールの町を通過する。この一帯も基本的にはドライな気候のため緑はほとんど無いが、灌漑が進んだところでは農業が営まれている。
3時グールの町を通過。街道の両側には店が軒を並べ果物、肉などを売っている。NATCOのバスが行き違った。NATCOはnorthern area transport corporationの略で、北部地方の交通を支える公営機関だ。そういえば頻繁に行き交っていたのを思い出した。左手には見事な山容を誇るラカポシ(7788M)が前を遮るものもなく聳え立っている。
左対岸には下フンザの集落が右手はナガールの集落が続く。街道の両側には杏子の木が植えられ、春にはピンクや白の花が見事に咲き誇るそうだ。この地方では杏子はすでに収穫を終えているのでシーズンオフになっているが、上フンザではまだ収穫中かもしれないとのことだった。なにしろフンザと言えば杏子が代表的な果物、楽しみにしておこう。対岸には岩山がそそりたち岩壁が続いているが、中腹に一つの筋が目に入る。それは今は使われていないかつてのシルクロードの一部だ。1960年頃まではこの地方の行き来の重要な街道であったし、玄奘三蔵も往復した歴史的街道だ。使命を果たした街道は所々崩落で遮断され、行き来は出来ない状態になっている。
3時50分ラカポシのビューポイント・グルミットで一息入れる。車が行き交う道筋からこんな高山を眺望できる素晴らしい景観は先ず無いのではないか、そんな風に思わせる景色だ。お気に入りのマンゴージュースで渇いた喉を潤す。しばらく走ると右岸に移動する。すぐに下フンザの町ナッシルアバードを通過、ここに来て雰囲気が一変する。それは女性が行き来しているだけではなく、彼女たちが全頭を覆うブルカではなく、頭に羽織るスカーフを付けているだけだ。当地はイスマイリア派に属するエリアで開放的な信仰が許されている証拠だ。
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前方正面にウルタル・サール(7388M)が聳え立っている。実はこの山は日本人にとって特別な関係がある。登山家長谷川恒男が挑戦し、雪崩に巻き込まれて夢果たせず亡くなった山だ。フンザには彼の遺産で寄付された学校もある。以前に日本語の通訳はほとんどフンザ出身者だと聞いたが、その背景に日本人長谷川が関係しているのかとも想像した。道ばたには大きな布袋を背負って集まってきている。中身はジャガイモで、家族総出で出荷のために街道筋に集まってきている。そういえば車体の2倍以上の高さもある囲いをもったトラックが重心を左右に振りながら下りてくるシーンを見てきたが、それがジャガイモを搭載したトラックなのだ。周りには杏子ではなくリンゴが植林されていて、まだ熟していない青いリンゴがなっている。
女性の姿が一変したと同時に男性の服装もパキスタンの象徴的服装サルワーズ・カミューズではなく、GパンにTシャツ姿が増えてきた。4時50分カラコルム街道を離れて左手の坂道を登る。カリマバードの町に入るとすぐ左手にあるホテル・エンバシーが今晩の宿だ。フンザ川そして対岸にある山々、ラカポシも望める素晴らしいホテルだ。荷物を部屋に置いてすぐにカリマバードの町に向かう。石畳のそれほど広くない急坂に軒を並べた店店。化石や骨董品や貴石、半貴石など、あるいは織物が売られている。登りきったところに長谷川恒男の名前が付けられている学校ハセガワメモリアルパブリックスクールがあった。イスラム文化圏としてはきわめて珍しい男女共学で小学校から高校まである。
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そこからは改修中のアルティット・フォートが見える。カリマバードにはもう一つパルティット・フォートがある。フンザのミール(藩主)の居城であった砦で一時は朽ち果てていたがアガ・カーンによって修復された。700年以上前に作られた建造物の部分もある歴史的遺産でもある。街並みをさらに進むと下りとなり、眼下には点在した集落が目に入る。ガイドのイルファン君は当地の出身だから会う人会う人、挨拶を交わし、久しぶりだと抱擁をしていた。ホテルに帰る際に風邪気味なので現地での薬を買ってみようと薬局の寄る。日本のドラッグストアとは全く違って診断も兼ねた機能を持っている。リンパの腫れとか喉奥を覗いて処方をしてくれた。もらった薬はどぎつい色のサイズも大きな薬だった。イルファン君も風邪がますます悪化したようで一緒に買い求めていた。
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ホテルではイルファン君からの差し入れでイチジクのリキュールを食前酒として飲みながら食事をする。アルコール度は30度を超す強い酒だった。ここにも当地が原理主義的イスラム信仰でない自由度が表されている。イルファン君は風邪が悪化してバツーラへのトレッキングには参加しないで故郷である当地フンザで養生することになる。

インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑪ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月6日(月)カリマバードからパスーそしてユンズベンへ

R0011547a.jpgホテルには当然冷房もなく、大きな扇風機が唯一蒸し暑さを解消してくれるのだが、さすがに寝苦しい。風を直接当てると強すぎるし、天井に向けると弱い。なかなか寝付けなかった昨晩だった。7時から朝ご飯。ガイドのイルファンさんが自宅に帰ったのでホテルマンとは直接のやり取りになった。英語でのやり取りが不自由なことが分かったので身振り手振りで会話を試みたが思うように繋がらず流れに従うことにする。何とか朝ご飯を終えて出発の準備をしているとイルファンさんが戻ってきた。相変わらず鼻水とクシャミをしている。彼から最終的にバツーラへのトレッキングに同行できない、山岳ガイドのナシーヌさんと一緒して欲しい、とのことになった。

8時50分ホテルを出てバツーラへの入り口パスーに向かう。山岳ガイドのナシーヌさんはパスー出身なので昨晩は実家に泊まっている。久しぶりの家族団欒を楽しんだことだろう。彼は地元でトレッキングの食材を調達してパスーで合流することになっている。
R0011551a.jpgこの一帯では一番歴史の古い町ガニッシュを通り、すぐにカラコルム街道に合流して左折する。フンザ川を対岸(左岸)に渡る。左手に長谷川恒男が挑戦したウルタル・サールⅡ峰(7388M)が天をつくように聳え立っている。1990年日本人によって初登頂された最も難しい山の一つと言われている。悲しいことに翌年彼はこの山で帰らぬ人になった。しばらく行くと岩絵が点在する。15世紀頃のものと言われ、アイベックスや侵略者の姿が刻まれている。対岸には稜線越しにフンザピークその左手にレディースフィンガーが望める。

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対岸の岩肌をくりぬくように再びシルクロードが走っている。9時35分アイナバードに入る。道は東から北に向きを変えて走る。冷房を切って外気を入れながら走る。朝だけのことだがとても気持ちいいドライブだ。正面にのこぎり状の見事な山郡が見える。タポプダン峰(6700M?)別名パスー・カセドラルとも呼ばれている。






DSC_2438a.jpg9時40分シシュカットの集落を通過。フンザ川の河岸を中心に緑が繁茂している。この一帯では道路脇に真っ直ぐに高く伸びているポプラが今までの地方とは違った風情を醸し出している。対岸に渡ると上フンザ地方に入る。10時上フンザ地方の中心地グルミットに入る。民族的にはパキスタンでは少数民族になる中央アジア系の民族が多い。肌の色は白く日本人から見るとまるでロシア人と区別がつかないほどだ。10時過ぎにグルミットの町にあるリゾートホテル・シルクルートホテルで一休み。玄関先でガイドのイルファン君がホテルから出てきた小太りの初老の老人と抱擁をして親しげに会話が弾む。私も紹介されたが、その老人はなんとイルファン君の遠い親戚で、フンザの藩主の従兄弟にあたるそうだ。ついつい手をさしのべて握手をする。
外気温はすでに高くなっていたが、部屋に入ると冷気が漂っていて凌ぎやすい。小綺麗なホテルだ。

DSC_2437a.jpgお茶を飲んでいると数人のパシュツーン人が入ってきた。イスラム教の教義がきついエリアの民族なのだが、オープンな服装をまとっている。このホテルからのパス-カセドラルは見事な景観だ。パキスタンを代表するシーンの一つとして選ばれているそうだ。ここで写真を撮りたかったのだが、いいアングルが得られなかったのでホテルに頼んで空いている寝室に入れてもらって、そのベランダから撮影をさせてもらう。左手にはグルミット氷河の末端から滝が落ちている。道ばたにはラベンダーの花が見事に咲き誇っている。果樹園もありリンゴや杏子も実を付けている。
DSC_2450a.jpg10時40分フサイニの町を通過。後方左手にはウルタル・サールが望めるはずだったが残念ながら雲に隠れていて見ることは出来なかった。11時パスーの集落に入る。パスーを過ぎて人家が疎らになった左手にあるアンバサダーホテルに入る。この一帯は50年ほど前に大洪水で多くの人家が飲み込まれた悲劇があったそうだ。今日では再びニューエリアとして開拓が進められている最中だ。氷河からの灌漑用水を誘導して耕地へと改良事業が行われている。ここで昼ご飯を済ませて、トレッキングの準備をする。先発でパスーの実家に寄った山岳ガイドのナシーヌさんが買い出しした食材を持って戻ってきた。彼は現地でのポーターを集めそれぞれに荷物の分担を指示していよいよバツーラへのトレッキング開始となる。

1時に車に乗り、ほんの少しカラコルム街道を走って、すぐに左手に折れる。数百メートル先で下車していよいよトレッキングの開始だ。
R0011552b.jpg車から下りると照り返しもあって灼熱の暑さを肌で実感。木陰に入らないととても堪らない状況だ。ここで体調の悪いイルファン君は車と一緒に引き返し、彼の故郷カリマバードで(風邪の)治療に専念してもらうことになる。
しばらくは緩い傾斜の砂地をそしてその後は瓦礫道を歩く。

R0011554a.jpgあっという間に玉の汗が額を走り拭うのも億劫なぐらいだ。滝の汗とはこんなふうなんだろうと実感した。草は多少生えているが岩と砂の世界。1時40分に歩き始めて30分ほど登った丘の上に立つ。ここからはフンザ川、その後ろに聳えるパスーカセドラル、川に沿って伸びるカラコルム街道、灌漑用水が引き込まれて縦横の道に囲まれた耕作地、見事な展望だった。

一息入れていよいよバツーラ氷河へ。急峻な九十九折れのトレイルを進む。左手には切り立った垂直の岩肌が迫り、右手はバツーラ氷河に向かって谷になる。徐々に緊張する足下になるなか、汗が額を走るたびに拭いたいが、気も抜けない緊張に苛々しながらの歩きだ。遙か下にはバツーラ氷河から溶けたばかりの水が勢いよく白濁して流れている。傾斜は緩くなったが崩れた瓦礫や砂地を乗り越えたりしながら先に進む。3時左手前方にユンズバレーが視界に入る。その先にはパスー氷河があるそうだ。3時10分に今日のテントサイト、ユンズベンに着く。バツーラ氷河の右岸でフラットな平地が広がっている。
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無人小屋もあって我々より先に二十人近くの青年達の一団がすでにテントを張って夕ご飯の用意が始まっていた。テントサイトから右手谷に向かって下りると氷河の水が手に入る。その水を使っての調理だ。彼らは地元の青年団なのか確認できなかったが、軍隊的統率もないので学校の野外活動のようにも見えた。数も多いし若いのではしゃぎ回っていたし、キャンプファイヤーを囲んで賑やかに歌声も聞こえてきた。夕ご飯を終えてテントに入って一息入れていたが、喧噪に苛々しているうちに眠りについていた。確実に厚い雲に覆われ始めていたのが気掛かりだったが。
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インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑫ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月7日(火)ユンズベンからヤシュペルトへ
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生憎の小雨となった。幸い風がないので最悪状態は避けられたが、ブルーな気分になる。雨具を上下まとってザックにもカバーを掛けての出発となる。7時に全ての準備を整え、ヤシュペルトへ向かう。まずはバツーラ氷河に向かって下る。下りきったところが水場になっていて、他のグループの数人が水を汲んでキャンプ地に運んでいた。ここがバツーラ氷河から溶けた水がようやく地表に現れる地点になっている。水は白濁した水でとても視覚的には飲めるようなものではない。しかし現実にはこの水がここでは唯一の水源で、その水で作られた食事をとっていたわけだ。バツーラ氷河はいままでトラバースした氷河より規模がはるかに大きく横断するには手応え十分だ。氷河が剥き出しになった縁を歩いたり、押し出された岩を避けながら道をたどる。
R0011561a.jpgDSC_2465a.jpgR0011562a.jpg


8時20分ようやく渡りきって対岸のちょっとした広がりのあるところで一休み。右手は岩がそそり立っている。崖を切り開いた細いトレイルを緊張しながら登ったり、ガレ場の中を、そして大きな岩を踏み越えたりの連続だ。右手には沢が入り込んでくるが、涸れ沢だ。目を上に向けても垂れ込める雨雲に視界は遮られ目に入るものは灰色の世界だけ。
ひたすら単調に歩くだけの気持ちとの戦いを続けていくうちに気がつくと緩やかな登りになり、木々が茂るフラットな地形になっていた。11時20分アリダカーンハウスに着く。この小屋の謂われは息子を失った遺族が寄付して作られた山小屋、中には中央に暖炉があって薪をくべて団欒をしている何人かの欧州からのトレッカーとそのポーター達がいた。雨で冷え切った体を暖炉の前で温める。ここの標高は3000Mだ。
R0011570a.jpg12時過ぎに小屋を出る。今までとは違って傾斜も緩く、雨期にはしばしば小さな流れが川となって一帯が湿原になると思われるような砂地がある。それを囲むように柳が繁茂している。そこを歩くとクッションが効いて快適な気分、疲れがとれるような錯覚になる。1時頃に再び氷河がトレイルに迫りモレーンの上を進む。突然ポーターが立ち止まってガイドに話しかけてきた。指を指した先の地面を見ると掌より一回り大きい土が露出している。ガイドの通訳で分かったことはユキヒョウの足跡だそうだ。オシッコをした後に後ろ足で蹴り上げた跡と聞き、仰天した。まさかユキヒョウそのものは別として生存の証を確認できるとも思っていなかった。半信半疑で話を聞いたが、ポーターの迫力に納得してしまったというところか。
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小雨も時折となり最悪コンディションにはならなかったが、雨具を着てのトレッキングではフードが視界を遮り、体はジットリと汗をかいて不快だ。周囲には低草木しか生えない環境に変化してしている。地肌が露出した斜面を登り切るとフラットな地形になった。ビニール管が一本先に伸びている。その先に目をやるとそこは今日の目的地ヤシュペルトだ。アブレーションバレーからはかなりの高度差がある高所だ。岩を積み上げた小屋がいくつかある。数組の白人の一行がすでに幕営をしていた。対岸にはバツーラ連山が雲の中。無限の天空に繋がる回廊のように氷河の末端だけが視界に入る。さっき見たビニール管はこのキャンプサイトへの唯一の水源を供給してくれている。気がつくと掲示板にその謂われが記載されていた。1959年イギリス・ドイツ登山隊がバツーラ登頂を目指して無念の結果になった際の遺族の一人バルバラ・ヒルヒシュラーの寄付で作られた貴重なものだ。トレッカーにとってまさに命綱になっている。明日の天候回復を祈る。

インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑬ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月8日(水)ヤシュペルトからファティマヒル往復

ヤシュペルトは標高3302M、日は差しているけどバツーラには重い雲がのしかかっている。今日はバツーラ氷河を遡行して展望の素晴らしいファティマヒルまでの往復だ。大した登りではないので楽なトレッキングだと聞いた。6時に起床、7時40分に出発する。相変わらずの天候でパス-Ⅱのピークが雲間から望めた。バツーラ氷河の左岸をなだらかな登りというかほとんどフラットなトレッキングになる。相変わらず対岸に連なるパス-そしてバツーラの連山のピークは雲の中だ。ずうっと前方のコンピール・ディオール氷河がバツーラ氷河に流れ込んでいるその先にあるクックザール(6943M)が時たま雲の切れ間から望めたりするが、一瞬のこと。雲の流れは安定せず、右から上っていくかと思うと逆流してしまう。

10時にはファティマヒルに着いたが、残念ながら視界は相変わらず、ピークはほとんど望めない状態が続く。この天候では先に足を伸ばしても展望がきくわけでもなく、ここでしばらく時間を稼いで一瞬の僥倖を期待することにする。日差しはあるので寒さは感じない。横になってのんびり雲が切れるのを待つ。ビスケットを食べたりうとうとしたりが天候は快方には向かわない。11時半を過ぎても変化がないので取りあえず少し下がった地点に移動し、再び天候の回復を待ち望む。バツーラ氷河とコンピール・ディオール氷河が合流するその先は晴れ上がっている。その先はアフガニスタンの国境方面になる。


結局バツーラのピークを拝むことが出来ず、断念してキャンプに戻る。夕方になると登ってきたルートを振り返るように麓を望むとずうっと先の雲の上にデスタギール・ザール(7885M)のピークが浮かび上がっていた。ギルギット地方では最も標高の高い山だ。

相変わらず腹の調子は良くない。もう少しの辛抱で下山できる。我慢のしどころだ。

インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑭ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月9日(木)ヤシュペルトからパスーへ

DSC_2530a.jpg腹の調子が悪く、早朝に目を覚ます。テントから出ると朝日が差し込んで天気は悪くない。しかし、バツーラ連山のピークは厚い雲に覆われていて望むことは出来ない。



DSC_2477a.jpg冷気が肌を刺してとても気持ちがいい。5時に起きて写真でも撮ろうかと思っていたが残念ながらそんなチャンスは望めそうもない。6時50分出発する。今日のスケジュールは二日がかりで登った行程を一気に下ることになっている。
7時過ぎ、左手に切り込んでいる谷に向かってキャンプに水を供給している塩ビのホースが延びている。その先を見ると細い流れがあって水源になっていた。トレイルを先に進むと砂地のフラットな広がりになる。実はここは4年前に大雨で冠水しトレイルが水没、トレッカーは迂回するのに苦労をしなければならなかったそうだ。ガイドが当時のそんな苦労話をしてくれた。このあたりまで下りると木々も繁茂している。
DSC_2542a.jpg広がりを過ぎると岩場に入る。左手には垂直に見事な一枚岩が屹立している。手がかりの少ない岩なので難易度が高いだろうけど、ロッククライミングには素晴らしい岩場に思えた。
8時40分カーン小屋に着く。小屋の中は多くのトレッカーが一息入れていることもあり、下山を急ぐことにする。トレイルはフラットな地形から徐々に岩場に変わっていく。そしてそそり立つ岩に氷河が近づきトレイルの眼下に迫ってきた。




R0011593a.jpgR0011596a.jpg9時30分岩場に腰を下ろしてひと休み。天候はいいがバツーラ連山は雲のなか。岩場の道が続き、足には負担がかかる。10時30分バツーラ氷河トラバースを前に昼食をとる。

R0011607b.jpg11時40分氷河トラバース開始。すでに太陽は強烈な日差しをふりそそぎ、大地はそのエネルギーを受けて露出している氷河からは水滴がしたたり落ちている。
氷河特有の凹凸を右に左に降られ、アップダウンの繰り返しをどれだけしただろうか、氷河の上なのに汗だくになる。遠くからごうごうと言う流れの音が耳に入る。氷河が溶け出して流れが始まっている。ガイド、ポーター達はこの水を美味しそうに喉を潤して
R0011616a.jpgいる。ペットボトルに詰め込んでいるのを見たら不透明で白濁している水だ。
免疫力の違いなんだろう。そういえば知り合いの在日ネパール人が里帰りしたら水が合わなくて下痢をしてしまうそうだ。彼ですらそうなるとすれば日本人が現地に入って体長を崩すのはある意味当然とも言える。
そこから急坂を一気に登りきると一昨日キャンプしたユンズベン。1時30分バツーラ氷河のトラバースを終えて一息入れてパス-に向かう。バツーラの右岸は切り立った細いトレイルが続き緊張の連続だ。今回のトレッキングのまさに最後の行程に入ったが、疲労も蓄積し体調不良からの体力消耗も極限に来ている。相変わらず灼熱の日射を受けて汗もかくし、喉も渇く。喉を潤すミネラルも限りがあり、節約しながらになる。右手から延びている尾根を乗越すと一気に視界が広がりカラコルム街道にそってパス-の開拓中の耕作地が見える。
R0011621a.jpg白濁したクンジュラブ川(下流ではフンザ川)が蕩々と流れている。街道沿いに今晩の宿、パス-アンバサダーホテルも見える。最後の体力をはき出すように走るようにしてそこに向かう。気持ち的には飛ぶように走った。ポーター達とも競争しよう。遮るものもない一気の下りを下りて3時10分ホテル前に着く。
ホテルでは体調を崩していたイルファン君が待っていた。まずは久しく体を洗ってないのでシャワーを浴びる。今晩は今回のトレッキングをコーディネートしてもらったベーグさんの実家にご招待される。ホテルは村外れにあるので車でひとっ走りし、パス-村に。カラコルム街道から細い道を入り、集落の一角にある果樹に囲まれた家に入る。そこではベーグさんのご両親、弟さん、妹さん、一家総出での歓待だ。
フンザと言えば杏が連想されるが、一番の旬は終わっていたので手に出来なかったが、ベーグさんの庭には幸い杏子が鈴なりになっていた。どうぞもぎ取って下さい、という事で捻って手にする。そのまま囓ってみたらなんと美味しいことか。日本では杏子を果実として賞味する事はほとんど無いので期待していなかったが、想像以上に美味しい果実だった。それは水に飢えていたのと体調不良が加速させていることもあるだろうが、人工的に作られた美味しさに慣らされた我々にとって自然の中で完熟したものがいかに美味しいかを改めて教えてくれた。
日が落ちて真っ暗になる。今晩は電気の供給のない日に当たり明かりが使えない。電気の使えるのは週に数日だけだそうだ。気を遣ってもらい、発電機を回そうと何度もトライしていたが思うように作動しない。結局ローソクで明かりを作り、夕ご飯が始まる。部屋は絨毯の敷き詰められたとても綺麗な部屋だ。私とイルファン君と家族が向かい合うように座り食事が始まる。ベーグさんの父上は60代だろうか、とても精悍なしかし同時に穏やかさをたたえた素晴らしい古老だ。奥さんが膝のリュウマチだろう、歩くのが辛いのを気遣って息子が住む日本にも行くことを断念しているとか、大変な愛妻家だ。彼は料理の達人でもあった。
DSC_2562a.jpg今晩の料理はご主人の手料理だと聞いて目を疑ったが、ご馳走を口にした瞬間にそれは実感し、体調不良なおなかも大歓迎体勢になった。もりもりと久し振りの食事に箸が進む。食べ過ぎて体調を悪化させるのでは気にしながら結局は全てを平らげてしまった。こんな現地での自然な雰囲気と仕来りに接する機会をを楽しむことが出来た幸運がいい思い出になるだろう。家族総出の見送りを受けて辞去する。

インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑮ [ナンガパルバットとバツーラ]

8月10日(金)パス-からベシャームへ

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いい天気だ。全ての行程を終えて帰路につく日を迎えた。4時過ぎに目を覚まし、しっかりとこの地方そして山々を残像として記憶しておこう。ホテルの前を過ぎるカラコルム街道はさすがに行き交うトラックはほとんど無く、静かな佇まい。ウイグル(中国)との国境にあるクンジュラブ峠に向かう街道をぶらぶらと先に進む。前方には見事なタポプダン峰(別名パスー・カセドラル)が朝日を受けて紅色に染まり始めた。その針峰に沿って左手にカラコルム街道が延びクンジュラブへ、右手にはシムシャール渓谷がシムシャール峠に延びている。
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街道の両側には開墾中の畑が広がっている。日本人の寄付で作られた小学校の表示が道路端に立っている。その先で老夫婦と息子夫婦だろうか道ばたでなにやら立ち話をしていた。軽く挨拶を交わした。親しみのある穏やかさに心が和み、意味分からずに手振りで会話を試みる。今となってみるとどこで意思疎通が出来たのか思い出すことが出来ないが、ギルギットに向かう息子夫婦と彼らを見送りに来たご両親が乗り合いバスの到着を待っている、と理解した。彼らの家族の絆が印象に残ったので写真を撮らせてもらった。街道に沿って先に進むが、スケールが大きすぎていくら歩いても景色が変わるわけでもない。バツーラ氷河からの流れに架かる橋のたもとまでで引き返す。

軽い朝ご飯を済ませて6時には車に乗り込む。ベシャームまでの距離は日本の感覚では一日行程とは思えないが、ガイドによればハードな行程になるとか。道は一部を除き舗装されているのでかなりのスピードで走っている。パス-の市街地でナシーヌさんをピックアップする。彼の実家がパス-であることは前にも話したとおり、しばらく離れる実家で家族水入らずの夜を過ごしたはずだ。昨晩お世話になったベーグさんの弟さんも見送ってくれた。街道両側にはリンゴの栽培が盛んでたわわに実っている。日本のリンゴのようにサイズは大きくなく、少しだけ赤みを帯びていた。中フンザの中心地ガーニッシュ(カリマバードの入り口の町)を通過、フンザピーク、ラカポシも望める。

そういえばパキスタンに入国してから早朝に睡眠を妨げた祈祷時間を案内する放送がフンザ地方に入ってからは一切無いことに気がつく。イルファン君に聞くと、そのような習慣はフンザにはなく、本人の自覚に任せているそうだ。若者がGパンを履き、ブルカを付けないで歩く女性、男女共学の学校、時には内緒かもしれないがアルコールも嗜む、当地でのイスラム教が我々の想像とは全く違った形であることを改めて実感する。アルカイーダに代表されるイスラム原理主義イコールイスラム教という短絡的な関連づけが大変な勘違いであることが分かった。願わくばイスマイリア派の影響力が高まってもっと平和的な社会になることを祈るばかりだ。
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10時20分3大山脈の合流する地点ジャグロットの町外れを通過。ここでスッカルドの方から流れてきたインダス川と合流して、インダス川はさらにアラビア海に向かって長い旅を続けるのだが、。ヒマラヤは緑の山をカラコルムは黒い山を、そしてヒンドゥークシュはヒンドゥー人(インド人)を殺す山を意味するそうだ。ここでカラコルム山脈とはお別れだ。進行方
DSC_2582a.jpg向左手にはナンガパルバットが浮き立つように横たわっている。ナンガパルバットを頭にして続く稜線とライコートのピークがまるで人間が横たわっている寝姿に似ているということで「眠れる美女」と地元民は呼んでいるそうだ。日差しも強くなっているのと逆光でもあるので霞みがかった視界になる。左手後方にはハラムシ(7409M)が見える。

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チラスの町の手前で左手に道路建設の重機が入って工事をしている。この工事はバブサール峠を越えてマンシェラへと繋がる道路建設現場。インダス川沿いのカラコルム街道はしばしば嵐で落石や路面崩落が起きて長期にわたって不通になることがあり、その迂回路というかバイパスとして開通が望まれている。この道が開通した暁には現在より大幅に短縮されて6時間?前後で行き来が出来るそうだ。この一帯には3世紀から7世紀頃の岩絵が点在している1時に往路で入った中華料理店(パノラマホテル)で昼ご飯になる。店内は大きな扇風機は回っているものの灼熱の気候には焼け石に水だ。
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2時に出発。チラス地方はとりわけ猛暑と乾燥地帯で、岩と瓦礫の連続だ。2時半にノーザンエリアから北西辺境州へ入る。ようやくペシャワールを州都とするエリア。3時過ぎにシャチアールの町を通過するが、町の様相が一変し女性の姿は皆無、男は白い独特の帽子を被り、黒々とした髭もじゃな姿に統一されている。スンニ派を信仰するバザールであることが分かる。この辺になるとインダス川は深い谷底を轟音を立てて流れている。街道からは垂直に切り立って落ち込んでいるので対向車と行き違う時にはひやひやする。逆光をあびて蛇行するインダス川の川面だけが銀色に輝いている。カラコルム街道は大凡1000Mの高度を水平に移動するので川面は確実に遠く深く、時にはV字峡の様相を呈する。年に数台のトラックが谷底に落下する事件があるとの話に身震いが走った。時速40KMのスピードでさえあまりにも早すぎる印象になってしまう。

徐々に岩と瓦礫だけの世界から急斜面に端正に開墾された棚田に緑が映える。4時半コーヒスタン(山々の国という意味)地方の中心地ダスを通過する。アーリア系の民族が中心で、この町もスンニ派に属する人々が多い。この地方の人々は気性が激しく、部族間での争いがしばしば、その結果殺人事件にも至ることもあるそうだ。小銃を持ち歩き、身を守るために相手を殺す、町内では法治国家だが、ひとたび山岳に入れば無法地帯となり、法の追求から逃れることが出来てしまう、緊張感が漂うエリアだそうだ。

6時15分ズビアールの町を通過。カラコルム街道も一気に高度を下げ始める。復路もイスラマバードまで陸路の移動になったが、エージェントを通じてギルギットからのフライトの予約を依頼したものの、購入できなかった。確かにどのトレッキング企画を見ても飛行機を使うスケジュールだが、但し書きに陸路への変更もあることが注記されている。余程天候が不安定でキャンセルが多いということなのだろうか。6時半ベシャームへの入り口で検問を受ける。R0011727a.jpgすでに日は落ちて闇の世界。先方に煌煌と明かりがともる町が見える。今晩の宿泊地ベシャームだ。往路は町外れのロッジだったが、復路では市街地のど真ん中にあるホテルになる。立派なホテルで土産物店もあり、部屋にはバスタブ付きで冷房も付いていた。久し振りに体を思いっきり洗い、ぐっすり眠れそうだ。
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インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ⑯完 [ナンガパルバットとバツーラ]

11日(土)ベシャームからイスラマバードへ

DSC_2583a.jpg辺境地区にしては立派なホテルで一夜を過ごした。錆水もあったがバスタブでの風呂にも入れたし、十分とは言えなかったが冷房も効いていた。出発までの時間、ホテルにある土産物店を覗いてみる。イスラマバードに行ってしまえば、俗っぽい土産になるだろう。少しでも現地らしい土産物は無いかと物色する。怪しげだったがムガール帝国時代の絵と手織りのコースターそしてようやく見つけたトレッキングガイドを買い求めた。

8時40分にはベシャームを出発する。今日も一日がかりでイスラマバードまでの300KMを走る。カラコルム街道は昨日の断崖絶壁から穏やかな雰囲気に変わった。パキスタンはネパールに比べれば開発が進んでいるが、それでも家畜の存在はきわめて大きい。ちなみに山羊とロバは6000ルピー(12000円)、牛が15000ルピー、水牛が30000ルピーそしてヤクが50000ルピーが相場だそうだ。街道の両側の山奥にまで集落が広がっているが、道路の整備は行われていないため移動には全てロバに依存している。

9時20分タコットの町に入る。ここからイスラマバードまで265KM、カラチまでは2000KM弱、北京までは5000KM強の距離の位置にある。ここでインダス川を対岸に渡る。橋の両端で検問がある。

タコットからはインダスの流れから離れ、チャッタル川に沿ってチャッタル峠を越えてマンセラに向かう。街道の随所に山羊の集団が待機している。今日は山羊の出荷日と言うことで展開されている景色だ。10時バタグラムの町を通過。町中がごった返している。食料品、衣料店、薬屋、靴屋等々一睡の隙間もない賑やかさだが、全てが男性ばかりで女性の姿は視界に入らない。異様な景色に改めて驚愕する。
R0011738a.jpgこの一帯から先はカシミールの大地震の被災地でもあり今でも義援金を受領するために銀行の窓口に行列が出来ていた。日本からの援助の現地事務所もあって復興は震災以来数年経っているにしては遅々としている印象だ。震源地のカシミールからは200KM離れているのだが、構造の脆さが被害を大きくしている。

この一帯は緑の豊かな森林もあり日本の農村とも似通った風景にホッとする。棚田もあって稲が植えられている。10時40分チャッタル峠を越えてその先にあるロッジでお茶を飲む。養蜂の箱があちこちに置かれている。さらに下っていくとたくさんの養鶏場がある。12時過ぎにはマンセラの町を通過、S字カーブの連続を下るとアボッダバードだ。1時20分町中にある中華料理店に入る。立派なレストランでメニューも豊富だし、味もそこそこ。2時半には出発。町中は車と人で相変わらずごった返している。渋滞の中を縫うようにして走り、市街地を抜けると混雑も緩和され、速度も上げて先を急ぐ。

ハリプールでカラコルム街道と別れてタキシラに向かう。タキシラはガンダーラの中心。今日は時間が無いので明日にでも仏教遺跡やアレキサンダー大王時代の遺跡を見に来よう。アジアハイウエイに入り、イスラマバードを目指す。イスラマバードはラワルピンジの隣にある首都。完全な計画都市として作られた。整然とした区画にはまだまだ空き地がある。中心に近づくに従って商店やオフィスが並び、街路樹も大きく繁茂し美しい都市景観を作っていた。4時過ぎにはホテルアンバサダーに着く。
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