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インダス川を遡行して・・ナンガパルバットとバツーラ② [ナンガパルバットとバツーラ]

7月27日(金)から28日(土)(成田→アボッタバードへ)

27日14時パキスタン航空PK243便でNRT出発予定だったが、機体に空調不具合があって1時間のディレイとなる。前々からパキスタン航空はトラブルが多く、オンスケジュールでは運行されることが少ないと聞いていた通りだった。

天候快晴のなか寄港地の北京には5時40分(日本時間6時40分)に到着する。北京では1時間のトランジットが予定されているが、外に一歩も出られずなんと機内に缶詰状態で待機をさせられた。しかも再びトイレの修理のため係員が呼ばれて修理が始まる。機内掃除や食材の搬入そして北京での搭乗客の出入りで落ち着かない状況が続く。その上エンジントラブルも重なったようで7時半ようやく出発体制になる。 航路はウルムチからタクラマカン砂漠を経由してラホールに向かう。いつもなら下戸の私も酒をあおって眠りにはいるのだが、このエアラインはイスラム教のもとに禁酒状態になっているため機内での調達は出来ない。 ビジネスクラスといってもさほど快適でもなく、しかも砂漠に近づくにつれ激しく機体が揺れ始めた。今までに経験したことがないほど長く揺れ続ける。危険が迫っているとは思えないが、さすがに不安になる。

前面にあるテレビには航路図が表示され現在地が示される。パキスタンが近づくにつれ、「disputed territory」と言う表示に目がいった。すぐ側に座っていた日本人同乗者が連れのガイド(アフガン人)とそれについて議論していた。しかしその会話からは何のヒントも得られず疑問を解決できず消化不良の儘になる。パキスタンに着いてからガイドに確認して分かったことだが、そこは世界の紛争地の一つである(だった?)カシミールであることが分かった。いまでもどこの国に帰属するのか宙ぶらりんのエリアなのだ。約6時間弱のフライトで10時35分ラホールに到着した。

ラホール空港で現地のスケジュールをコーディネートして貰ったアミン・ベークさんと落ち合う。彼とは東京で日本人の奥さんと一緒に会っただけなので顔をおぼろげにしか記憶していなかったが問題なく再会を果たした。彼はフンザ(パスー)の出身、大柄で髭を蓄えている。日本語が達者でやり取りには不自由がない。

飛行場から宿に向かう。12時に「リーダーズ・イン・ラホール」に到着する。途中の景観はネパールとは格段の違いだ。整然とした街並みから経済力の違いを実感する。ホテル内はなんともいえない独特の匂いが漂っていた。何か、と言われても断言は出来ないがおそらく香辛料の匂いではないだろうか。 ロビーで今回の日本語通訳兼ガイドのIrfan Karim Sukuさんを紹介される。彼はフンザの出身で、ギリシャ人の血を引いているとのこと。フンザにはアレキサンダー大王侵攻時に住み着いたギリシャ人の血を引く集落があるそうだ。外見は鼻筋の通った目の大きい、知的な青年だ。後で分かることだが、彼の日本語は実に見事で、日常会話を越えて歴史観、文明についても語り合える語学力には感服した。ただ、後で分かったことは彼がギリシャ系とか、アレキサンダー大王の血を引くと言う人の話を訝る人もいて彼のことを嫌う仲間もいることが分かった。どちらが正しいのか、その真偽は闇の中にある。明日からのスケジュールの確認と注意事項を聞いて部屋に入る。バズ・タブでの入浴は当分出来ないのでしっかりと味わっておこう。

28日何時頃だろうか明け方に遠雷とも言えない、何か騒々しいごぅごぅと言う喚きに目を覚ます。何事か、とその時は不審に思ったが、後で分かったことは祈祷の時間を拡声器で伝えているとの事だった。7時過ぎにモーニングコールで目を覚ます。朝ご飯前に街並みを見に外に出る。さすがに夜の印象とは違ってごみが散乱し不潔感が漂っていた。カメラをぶら下げて近くを歩いていると警官が近づいてきて、「どこから来た?」と質問される。あれこれの問いが続き彼らの目的が分からないまま、物見遊山なのか尋問なのか、しばらく緊張した場面が続く。さすがに一抹の不安が横切り、この状態から一刻もはやく脱出したい衝動に駆られる。顔では笑顔で答えながら「ホテルに帰らなければならないので」と言って、振り払うようにしてホテルに戻る。

ラホールは700万人の人口をかかえるカラチに次ぐパキスタン第2位の大都市だ。古く(1525年から200年間)はムガール帝国の中心として栄え、その後は英国植民地下で発展した都市だ。ラホールは古い街並みと英国統治下に発展した街並みに大きく別れている。しかし、我々にとっての魅力は当然ムガール帝国時代の王宮やモスクだ。今回はラホール見学に多くの時間を割けないので代表的な遺産であるバードシャーヒモスクとその側にあるシク教寺院(インドをルーツとする宗教)を見る。

バードシャーヒモスクはフォート(堡塁)の奥にあり、帝国最後のオーラングゼーブ皇帝によって建立された。見事な造りに圧倒されたし、まさにイスラム文化の国に足を踏み入れた実感が湧いてくる。モスクに入るには靴を脱いで裸足になる。一応歩くところには布が引いてあったが、石ころがあったり、鳩の糞があったりで裸足には一寸辛いときもあった。キリスト教のカセードラルに入ったときや高い天井の日本寺院に入った時に感じる不思議な神々しい気分と同じものをそこで体感した。宗教には形は違っても心に響くものには共通点があるようだ。

10時半過ぎにラホールを後にしてアジア・ハイウエイを一路イスラマバードに向かう(参考までにイスラマバードまでの通行料は235ルピー=日本円で430円)。アジア・ハイウエイは国連主導のもとアジアと欧州を繋ぐ幹線道路として企画され整備されたもの。ここはニューデリーからラホール、イスラマバードそしてカブールからトルコに向かう一部だ。3車線はある立派な自動車専用道路だ。チャーターした車はトヨエースの中古車。市内を出るまでは渋滞する道を縫って走っていたが、ハイウエイに入ってからは一気に交通量が減って快適な走行になる。ラホールからは限りなくフラットな地形で耕作地では米やトーモロコシが栽培されている。丁度田植えの時期なので家族総動員で田植え作業だ。機械化する前の日本と同じ光景が展開している。灌漑用水路が整備されているので干魃のリスクはないようだが、他方洪水のリスクは高いと聞いた。

1時ハイウエイにあるサービスエリアで昼食をとる。カリーライスとサラダ。まだまだ味には違和感なく美味しく平らげた。2時には出発する。しばらくしてジェルム川を渡る。この川はいわれがあってアレキサンダー大王の侵攻を防衛するために象部隊が威嚇し、大王はその際受けた傷が原因でバビロンで死亡したとの伝説があるそうだ。イスラマバードに向かって気がつかないうちに徐々に高度を上げていく。ようやく丘状の起伏が目に入る。コートファールという山脈に入る。道もS字状にくねり始め、さすがにエンジン音が唸りに変わった。緑が確実に減少して赤茶けた土質に変わる。モータリゼーションはパキスタンでは日本車によって実現している。走っている車の90%以上が日本車だ。スズキ、トヨタ、ホンダ、日産、三菱などなど。僅かに韓国車が目に入る程度だ。日本自動車業界の見事な勝利地なのだろう。

キヨラ岩塩鉱という採掘地がある。世界で2番目の規模だそうだ。ヒマラヤの岩塩は有名だが、貧しい奥地では岩塩が換金物資として命の綱になっている地域もある(映画・キャラバン)。4時一寸前に料金所を出て、イスラマバードの郊外に入る。ここでトレッキングの装備=テント、食材を車に搭載する。昨晩ラホールで会ったアミンさんが先回りして荷物を用意して待っていてくれる。ここで山岳でのトレッキングガイドをするナシーヌさんが参加する。彼は北部パスーの出身。白人(ロシア系?)の血を引いているのだろう中央アジアから南下してきた少数民族だ。アミンさんと同じ地方の出であるけど全く違う部族だ。腹が出ていてこれでトレッキングガイドかと疑いたくなる体型に一寸不安が走った。イルファン君からは彼は妊娠中です、とからかわれながら紹介される。

荷物を搭載し終えて早速今日の目的地に向かう。イスラマバードは新首都として完全に人工的に作られた街だ。ラワルピンジという古くからの商都に隣接した整然とした町並みが美しいが、人間臭さが感じられない味気なさも漂っている。我々はカブール(アフガニスタンの首都)への表示に従って西に向かう。世界の紛争地の一つになっているアフガニスタンの首都カブールにはカイバル峠を越えればそう遠くないということだ。3週間前に起きたイスラマバードでの神学校籠城事件やアフガニスタン難民キャンプの撤去など紛争地域まっただ中という印象だが、現実にはごく普通に市民生活の営みが続いているようだ。遙か右手彼方には山並みが見えるが、そこはヒマラヤの西端にあたるところだ。ヒマラヤの尻尾とも言われている。目視は出来ないが、そこに我々が目指すナンガ・パルバットもあるはずだ。

4時タキシーラの街に入る。帰路でこの街に寄るので詳細は後述するが、当地はガンダーラ地方の東端になり、クシャーナ朝(1世紀から5世紀)が仏教を信奉し、特にカニシカ王の時代にギリシャからの彫刻技術と仏教精神が一体化した仏像と言う概念がスタートした地方だ。近隣にはアレキサンダー大王の侵攻時代の遺跡、クシャーナ朝時代のシュトゥーパや仏像など多くの遺跡が残されていて、世界遺産にも指定されているところだ。外国の侵略とか宗教戦争に巻き込まれてこなかった日本人にとってはこんな話を聞くだけで、歴史の重さを実感する。しかも世界の歴史を作ってきたエリアであることを示している。

アジア・ハイウエイから離れハリプールの町を5時45分通過、当地にはパキスタンを代表する刑務所とダムがあるそうだ。ハザーラ・ハイウエイからカラコルム・ハイウエイを目指す。6時40分アボッタバードの街に入る。大学や医学校もある文教都市として有名な街だ。英国統治下に発展した町で当時の統治官アボッタが発展に貢献したところに地名の縁があるそうだ。街道から一歩中に入ったコッテージが今晩の宿、。7時10分に到着だ。いかにも英国人好みの造り。芝のある庭にはテーブルがあり、先着の白人が団欒していた。


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