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①ヒマラヤトレッキング・ランタン谷とコサインクンド2003/11/26 [ヒマラヤ・ランタンリルン]

(2003.11.26~12.10)
11月26日(水)~~~東京からカトマンドゥ

2003年2月にエベレスト方面のトレッキングを試みてからまだ半年というのに再びネパールに向かうことになるとは本人自身もまさかのことだ。前回の目的は世界最高峰エベレスト(サガルマータ、チョモランマ)を肉眼で確認したいという一心でネパール入りした。その念願が実現したのだからなんで・・・、しかも美味しくない食事とその延長にある体調不良、決して毎日の環境が快適と言うことでもないのに。これに対する答えは今もって定かではない。しかし、ネパールが呼んでいるのだ。

今回はランタン谷とコサインクンドを巡る12日間のトレッキング。ランタン谷は「世界で最も美しい谷」と言われている秘境。1949年イギリス人ティルマンが紹介したヒマラヤでも最後に知られるようになったエリアだ。コサインクンドは4,000mを越える高山にある湖(ヒンドゥの聖地)、そして4,610mにあるラウルビナヤク・パスを越えてヘランブーに下りるルートだ。人生で最高高度体験も含めてエキサイティングで、チャレンジングなトレッキング。最後まで計画を全うできるか不安で一杯だ。
ガイドは前回も依頼したガーレ・トレッキングに任せた。ガイドも前回同様サンタ、ポーターはオルンともう一人を追加で依頼することとした。

今回の相棒とはカトマンドゥで合流。前回経験済みのネパール入りとはいえ先進国入りとは事情が違う。多少の不安を抱えて向かった。羽田7時発のJALで関空に向かう。時間的にはもう一便遅いフライトでも間に合いそうだったが、ロイヤル・ネパールはしばしば出発時間より早く出ることもあると聞いたので、安全を見て一便早めての出発とした。前日予約したタクシーが定刻に自宅に来る。
 関空ではかなり時間があるので正直言って持てあました。荷物を持っての時間消化は大変な作業。ロイヤル・ネパールの搭乗手続きは2時間前だから10時半になる。VISAのラウンジで待機。暇つぶしも兼ねて友人に携帯メールをする。突然ネパールに行ってくる、って貰った方もビックリすることだろう。

 10時半には搭乗手続きを終える。ロイヤル・ネパールの受付はANAが代理している。ザックやポールを丁寧にビニール袋に納めてくれる。まだ日本だ。この感覚はきっと日々懐かしく感じるようになることだろう。荷物を渡してしまうと身軽に動ける。こんな時に限り仕事上の確認が入りファックスでのやり取りをする。直ぐにファックスが届く。チェックインも済ませ、いよいよ海外生活のスタート。しかし、成田と違って関空はローカルだ。免税店も大したのがない。

ビジネスクラスにしたことと前回とは違って搭乗者も少ない事もあって、なにかと快適だ。優先して扱われるのでエコノミーの搭乗に比べれば戦々恐々とすることもなく快適だ。同乗者には複数の中年から老年のツアー客が目に入る程度だ。

ロイヤル・ネパール航空は機材が古くボーイング757だ。1週間前に関空発カトマンドゥ行きが上海でトラブリ3日間足止めになったとか、それが原因で機材繰りに障害が出てダイヤが乱れに乱れているとの噂があったので心配だった。何度もオンタイムの出発か確認する。ビジネスといってもシートが一寸広いだけ。まぁ前回のように満席でうるさくて寝られないことはない。それだけでもマシか。噂の通り12時には出発体制。なんと定刻は12時半なのに12時10分には本当に離陸してしまった。瀬戸内海から五島列島の上を通過、いよいよ外洋だ。2時間後には上海。いつ見ても上海の海は汚い。長江の河口に位置するためか泥の海だ。近代的なしかしソフトがついていってない上海空港は前回同様無機的な印象。入れ物は立派、しかし人間工学的な配慮は二の次なのだろう。それがトランジットでの率直な印象だ。それは新しい香港の飛行場でも感じたことだが。一言で言えば背伸び現象と言ったら現代中国に失礼か。

20分近く早く着いたので給油が終わったらさっさと出発かと待っていたが、なかなかトランジット・ルームから出してくれない。ふと日本で聞いた機体故障が再現されたのではと、不安になった。結局は予定時間になって再度機上の人となる。想像ではあるが中国当局は規則通りの運営をしているのだろう。融通無碍の日本とは事情が違う。上海からの搭乗者は数人いたようだ。相変わらずビジネスは小生と親子連れだろうか二人の女性だけだ。定刻に上海を離陸。

これからが長いフライトだ。カトマンドゥには現地時間で6時15分着だから6時間ということになる。ビジネス・クラスにしたので客が少なくて多少は快適だが、予想外のことが展開した。なんとビジネスの席はクルー達の休憩に使われている。入れ替わり立ち替わり制服を着たパイロットだろう、来ては食事をする、挙げ句に寝る。おいおい誰が操縦しているんだ、と心配にもなる。さすがにローカルなエアラインだ。だからもしハイジャッカーでもいようなら簡単に操縦席に乱入出来ると言うことでもある。政情不安なネパールで国内では物々しい警護をしているのと比べたらこの脇の甘さは何だろう。そう言えばカトマンドゥからルクラに行くときも操縦席の扉、開けっ放しだったな。不思議な感覚だ。

疲れたのでシャンパンを貰って喉を潤しているうちにいつの間にかウトウトしたようだ。気が付いたら闇の中を飛行中。窓から下を見ると真っ暗だが深い山間部の上空だと言うことは分かった。暫くすると時々人家の灯りらしきものがぽつんぽつんと見えたりする。そして灯りが集まったところが街なのか、見事なイルミネーションという感じ。さて、ここは何処だろう。前回も気になったことだが、カトマンドゥ迄の航路を知りたかった。何しろカトマンドゥの北には世界の屋根ヒマラヤが聳えている。8,000m級の山越えで直ぐにランディングは無理だと聞いたことがある。それとカトマンドゥ空港は世界でも最も条件の厳しい飛行場の一つと聞いていたのでいつも心配になり、到着するまでは気持ちが落ち着かない。

スチュワーデスにチベットか、と聞いた。英語が正確でなかったのか埒があかない。そこでパイロットに同じ質問をする。なんとバングラデッシュの北部だそうだ。なるほどヒマラヤを越えるのではなく、南側からカトマンドゥに入るわけだ。確かに地図を見ても上海からカトマンドゥのルートは決して南下ではない。若干南下するがほとんど西南西という方向だ。到着予定時間近くなると地上の灯りが塊となって見えてくる。いよいよネパールの集落の上を飛んでいる。無事に予定時間にランディング。

飛行場での手続きは2月の経験もあったので慣れたもの。1ドルだけ現地通貨に交換し入国する。ロビーを出て柵の外では懐かしいオルンと相棒が待ちかまえていてくれた。緊張した気持ちが一瞬にして解けて一安心。相変わらず入国者の荷物を奪うように大勢の人がよってくる。払いのけるようにして、オルンの用意してきたタクシーに乗る。これも前回の学習効果有りだ。前回は勝手分からずでお金を巻き上げられたことが懐かしい。お前らの手には乗らないぞ、って一寸した優越感を感じてしまう。いや俺はネパールには素人ではないぞ、って事に自己満足している自分を発見。タクシーも前回のラムさんではなく、別の人だった。ラムさんは仕事を辞めて田舎に帰ったそうだ。会いたかったな。インド系の人懐っこい顔の人だった。相変わらず喧噪の中を縫って走る。市内は政情不安を聞いてた割には警戒が厳しい感じはしない。一路今夜の宿ホテル・バイシャリを目指す。バイシャリはタメルの中心にある高級ホテル。現地との行き違いで別のホテルが予約されていたが、一日前に現地入りしていた相棒の判断でノーチャージで変更してもらった経緯があった。

ホテルは現地の代理店ガーレの事務所の近くにある。先ずは事務所で料金の清算や明日からの打ち合わせをする。ガーレはアンナプルナの随行で出掛けているため弟が待っていた。20才と聞いていたが落ち着いた青年。歳に似合わずさすが任されるだけの器量を持っている。2月に会ったときより一層大人びていた。そう言えばオルンもすっかり大人びて半年前の可愛い青年ではない。この国はどうして若いうちから大人びてくるのだろうか。多分、田舎から出てきて自活しなければならない緊張と背伸び意識が精神的成長を早めているのだろうか。引き替え、日本の若者がフリーターでいつまでもモラトリアムから脱せないのとは大違いだ。

ホテルに荷物を置き夕飯を食べに外出する。前回行った「デリマ」に行く。小道の奥にあるレストランなので再発見するのに手間がかかった。タメルの中心にあるのに緑が豊富で静かな落ち着いた佇まい。味もそこそこ。量が多いので二人でシェアしながら食べる。さすがにカトマンドゥの夜、野外だと一寸寒い。腹ごしらえをし、スポーツショップやセーターをウインド・ショッピングしながら帰る。
天井では鼠の激しい争う音が響き渡ったがさすがに疲れもあって直ぐに寝てしまった。


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③ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド [ヒマラヤ・ランタンリルン]

11月27日(木)(日本との時差は3時間15分遅れ)
~~~カトマンドゥからシャブルベシ(1,460m)へ

朝9時20分の出発だ。ホテルにガイド、ポーターが勢揃いし、いよいよ今日の目的地シャブルベジへ向かって出発だ。今回新たに参加したポーターはラスクマールという青年。彼もガイドと同じグルン族だ。ガネシュマールの山麓方面を中心に居住する部族だ。宗教的には仏教で、シェルパ族ほどではないが日本人に近い外見。その中でラスクマールはインド系の顔をしている。若干違った血筋を感じる。オルンの学校での同級生とか。

トヨタのランドクルーザーが待機していた。それに乗り込みホテルを後にする。見慣れた町並みを通り抜けて北に向けて進路を取る。道はポカラに向かったときのような幹線道路ではないので、鼻を突くような排気ガスもなく交通量も少ない。カトマンドゥの郊外では軍隊の検問だ。我々は車に乗ったまま兵隊のチェックを受ける。ガイドのサンタがガイドの証明書を見せながら、日本人のトレッカーであると説明すると、手で合図をして通過を促す。何度か検問を通過する。ネパール人には厳しい検問が待ちかまえている。バスの乗客は全員下ろされて一列に並んでボディーチェックを受ける。そしてその先で待機しているバスにまた乗り込む。政情不安定なネパールだから仕方がないとは思うものの厄介な国情だ。

カトマンドゥから北上ルートは真っ直ぐチベットに向かうわけだから国境が近い。チベットの山々が遠くに見える。

今日の問題はシャブルベジまでの道程だ。モンスーンで道路が崩壊している為途中一部を歩くことになっている。その間10分ほど歩けばバスに再度乗り込んで目的地に向かえるとの説明であった。丘陵地帯の田園風景を右に左に見送りながら ひたすら走る。途中からは舗装も途絶え、いよいよ凸凹道に身体が左右前後に揺すられる。車に乗っているとはいうものの決して楽な状態ではない。4時間乗っただろうか、腰も痛くなり始めた。1時半には昼飯を取るため車から離れて一息。

再度ランクルに乗り込んでひた走る。小さな街をいくつか過ぎて、左手に大きな谷を見下ろしながら既に周囲には人家も無く山峡に入っていた。突然人気が増えて何か慌ただしい気配に一抹の不安が走る。いよいよ車を降りて歩くのだろうと直感したが、それにしては落ち着きがなくむしろ殺気だった感じ。ガイドが地元の人と窓越しにやり取りを始めた。先に進もうとしても立ちはだかるように人の山だ。確かに数十メートル先が土砂で道路が崩壊していた。地元の人とガイドのやり取りでこの先の状況が見通せない様子。予想外の事態になっているのを察することが出来た。この先どうなるのだろう。出鼻をくじかれた感じ。

 前進しないことには初日にして今回のトレッキング計画は頓挫してしまう。多数の現地人がうろうろしている。数百M先でも崩落によって道路が塞がれているのが見えた。道の形跡もない状態だ。ブルが落石を谷底に落として復旧作業中だ。そして待機している理由が分かった。これから発破を掛けると言うことだ。30分近く待っただろうか、前進が許されて歩き始める。

事前の話では10分歩けばバスが待機していることになっていた。既に3時半は回っていた。ところが10分どころか30分歩いても車が走れる様な道には出会えない。全く道路の跡形もない瓦礫の中に作られた歩行道路、下の方に辛うじて道路であっただろう片鱗が窺える。なにしろ酷い状況になっているのが分かった。ようやく車道に戻れて先に進むが、いつになったらバスが待ちかまえている場所に着くのだろうか、と不安になる。太陽は確実に西に落ち始めている。亜熱帯のネパールとはいえ2,000mの標高と冬だから立ち止まると汗が冷えて寒い。
1時間近く歩いた頃だろうか、遠くにバスの陰が見えた。そのバスに乗れると確信して取りあえずは一安心。そこには既に多くの人が群れていた。バスは2台あった。しかしガイドは緊張した面持ちで動き回り情報を集め始めた。直感的に事態は必ずしもいい状態でないことが分かった。沢山の人たちがバスの屋根に荷物を載せたり車内に入ったりしていた。バスに乗り込めるのか、すでに陽は西に傾き急速に寒くなっている。小さな店で茶を飲んで待機してほしい、とのこと。様子を見守っていた。何しろ事態の進行状況がただでさえ不透明の上に、充分なコミュニケーションが取れないから不安が募る。正確には記憶していないが数十分経ったのだろう、しかし印象としては何時間も経った気分だった。突然バスに乗り込めとの話しになった。緊張が一瞬にして解けて安堵した。ポーター達が我々のザックをバスの屋根に持ち上げ積み込む。
幸いガイドの配慮だろう、座席を確保してくれていた。4時半に出発。車内は既に暗く、車内の様子は闇の中だが、間違いなく満載だ。直ぐにバスは闇の中を一条のライトを照らしながら、車体を大きく右に左に振りながら低速で前進する。屋根の荷物も心配になるし、バスが壊れるのではないかと気になって仕方ない。闇の中、遠く谷の向こうにポツンと一つ小さな灯りが見えた。徐々に高度を上げながら1時間以上乗ったころ、その灯りが次第に増えてきて市街地、いよいよダウンチェ(1,950m)の街だ。ダウンチェはランタンに入る最後の大きな街だ。この先には今日の最終目的地であるシャブルベジしかない。

 ところが、ここまで来たものの先には困難が待ちかまえていた。車内では「このままシャブルベジに向かう」との話も出たりしていたが残念ながら現実はダウンチェで全員下ろされてしまった。ガイドの指示に従い目の前にあるホテルに入る。そこで暫く待機していたが、「その先に進むのが困難だ」と情報集めに奔走していたガイドが言い始めた。先ず車の手配が難しいとのこと。シャブルベジまでの道路状況が極めて危険で夜の運行は困難。明朝になればバスが出るので、それで向かうしかないと言う。

 しかし、日程的には普通なら14日コースと言われるところを12日に短縮、その為に最後の2日間はハードな行程になっている。ここで予定がずれるとスケジュールの変更を余儀なくされるかもしれない。リスクを避けるためにはあらゆる手を尽くして当初の目的地に向かいたい。その主旨をガイドに伝える。偶々ホテルの主人がバスの持ち主であったことが事態をややこしくしていた。バスを出さなければ泊まり客を確保出来る、どうもその話にガイドが乗っているのではとの不信が過ぎった。特に相棒は前回のトレッキング以来ガイド・サンタに対する不信感は強く疑心暗鬼で見ているのでなおさらだ。
ここでは裏取引とかの問題は別として、予定を全うする為にベストを尽くして前進することを最優先させなければならない。この遅い時間にバスを出すのは危険だとかいうやり取りはあったが、カトマンドゥの事務所のボスに連絡を取ってもらい強引にバスを出してもらう事に成功。

既に6時45分、周りは闇の世界。ここまで乗ってきたバスに再び乗車、当然お客は我々5人だけだでシャブルベジに向かう。相変わらず悪路だ。1,950mのダウンチェから徐々に高度を下げていく。1時間半ぐらいか、20時15分小綺麗な街、シャブルベジに着く。ホテル・ラマに入り不安の連続だった一日に幕が下りた。なにしろスタートで躓かなかった事に感謝だ。


④ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド  [ヒマラヤ・ランタンリルン]

11月28日(金)
シャブルベジ(シャブルベンジ)からラマホテル(地名)(高度差1、070m)

6時半起床。シャブルベジの雰囲気は昨晩遅く着いたのでまだつかめていない。街道に面したテラスからは既に慌ただしく動く街の風景が目にはいる。ダウンチェに向かうバスが2台待機し、屋根にまで乗客が乗り、まさに鈴なりの状態。東南アジアで見る景色そのままだ。こんな小さい街にどこからこんな人が出てきたのか不思議なくらいだ。シャブルベジは谷間で日が射し込むのが遅く、標高1,400mと言うこともあってさすがに朝の冷え込みに身が引き締まる思い。

外に出て近くを散策。街道の右手にはボテコシが流れている。この川の上流はチベット国境。その国境から南下してシャブルベジを通り、カトマンドゥに向かう大河だ。
8時20分準備を整え出発だ。いよいよ本格的な11日間のトレッキングの開始。今までの経験では想像もつかない長丁場、未体験の高度挑戦も含めて不安にもなるし身が震える思いだ。
街道をほんの1,2分北に向かうと直ぐ右手のボテコシに向かって草道を下る。入山のチェックポイントがあり、パスポート番号や氏名などをノートに書き込む。下りきった先の吊り橋を渡り表示に従い右手の道をラマホテルに向かう。

今回の目的であるランタン谷は1949年イギリス人のティルマンがそれ迄地図上は白紙だったエリアを探検し、世界に“最も美しい谷の一つ” として紹介して以来トレッキングのメッカになった。緑が豊富なことと、7,000m級の山々はヒマヤラの中でも独特の魅力を持っているそうだ。しかし後で分かったことだがここはソルクーンブやアンナプルナに比べればマイナーなルートだ。それはトレッカーの数で分かる。

 吊り橋を渡って右手に道をとるとボテコシから離れて、支流のランタンコーラの右岸を遡行する。遡行と言ってもなだらかな道だ。足慣らしには有り難い。チベタン・キャンプを左手に見ながらその先を左岸に渡る。緑の豊かな日本の山間部と何も変わらない景観。ヒマヤラにいることを忘れてしまうほどだ。2時間ほどでドミン(1,680m)に着く。

ここまではほとんどなだらかな上りでまさに鼻歌交じりのトレッキングだ。この先はいよいよ本格的な山道。ここでティーを飲んで一休み。ランタンコーラのコーラは日本で言えば小さな川、支流という意味らしい。30分ほど休んで11時出発。両岸の山も近くに迫り漸く山岳らしい景観になる。渓谷の向こうに高い山が見えるがランタンの一部、だがお目当てのランタン・リルンは未だ見えない。アップダウンはあるものの着実にスローな上りなので肉体的には大した負担にならない。左岸にランドスライド(崖崩れ)があり、そのままネーミングしたランドスライドロッジ(1,810m)を通り過ぎ、パイロ、ホットスプリングロッジを経由して1時にバンブーロッジ(1,960m)に着く。途中にトゥルー・シャブルへの道が分岐していたはずだが、気が付かないうちに通過したようだ。それとホットスプリングホテルには温泉があったことにも気が付かなかった。

バンブーロッジは開かれた燦々と日が射し込む一寸したリゾートの雰囲気の空間。いかにも西欧人好みの作りになっている。ここで昼ご飯を食べる。2時半には出発。出た直ぐ先にモンスーンで流されたロッジ跡があった。今では跡形もなくただ瓦礫に埋もれている。その当時の被害を聞いたが幸い日中に崩壊があったため全員無事であったと聞き、ホットした。怖ろしい話だ。

 数十メートルはあるだろう樹林帯の中を木漏れ日を受けながら歩く。サンタに言われて対岸の岸壁に目をやると縦長の白い袋状のものがいくつもぶら下がっている。サンタはルートファインディングだけでなく、その場の情報を見落とすことなく案内してくれる。彼の説明ではヒマヤラにしかいない蜂の巣だそうだ。

この蜂蜜は貴重で普通の蜂蜜の何倍もする高価なもの。蜂蜜は一寸口にするだけで効果百倍(何がだろうと想像逞しくする)だそうだ。





その先でサンタが興奮して木の上を見るよう言った。なんと顔の周りに飾りを持った銀色の大型のサルの集団だ。おそらく20匹以上はいただろう。この地方ではラングールモンキーが生息すると聞く。まさにその猿だ。近づいても逃げようとしない。カメラを用意して連写する。サンタは棒をたたいたり回したりしてからかうがお構いなし。しばらく猿の行動を観察する。

ランタンコーラの水流も狭いところを岩に阻まれながらの流れだから激しい奔流となっている。見事な勢い、美しさだ。リムチェ・ロッジまで2時間弱かかったか。適度な勾配となだらかな下りを繰り返しながら、確実に高度を稼いでいる。そうはいっても崖をトラバースしたり、一人がやっと歩ける道は一歩間違えれば断崖の下。氷のようなコーラに沈むことになる。一寸緊張する瞬間だ。

リムチェ(2,400m)はロッジとはいえ10代半ばの少年が番をしているだけの小屋。ティーとビスケットで一息つく。既に4時半近く。谷間なので既に日差しは天空にしかなく薄暗い、そして肌寒くなってきた。樹林帯の中をひたすら歩くと30分で今日の宿泊地、ラマホテル(2,470m)だ。数件のロッジが道沿いに並んでいる。 そう言えばドミンで出会った10人近い日本人が確かここで泊まっているはず。JALのOBの団体だそうだ。顔を知っているわけではないが相棒の職場の先輩でもあり、彼も気になっていたようだ。ロッジで荷を置くと彼は彼らを訪ねて下のロッジに下りていった。実はここでも一寸したトラブルが起きた。相棒はサンタに対する不信が募り、彼の選ぶロッジが不満のようだ。裏取引がある、とか。何故もっといい条件のロッジにしないのか、と言う。しかし何処が良いか悪いか、は判断しがたいし、ある意味サンタが気心通じているお陰で顔を洗う湯を分けてもらえたり、ブランケットの手配もしてくれる。この対立は結局最後の最後まで尾を引くことになろうとは。

 相棒が帰ってきて下のロッジが明らかにいいと言い出した。そのあげく変えてもらおう、とまで言い出す。この場は納めて何とかそのままとしたが、相棒とサンタの対立は自分との対立になって仕舞う結果ともなった。
 ヒマラヤに入れば何処でもチベット系の人々の世界。薄汚いが、間違いなく日本人に近い顔だし、感性的にも親近感を覚える。谷間と言うこともあり厳しい寒さもなく渓流の激しい囂々とした音を子守歌に熟睡する。


⑤ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド  [ヒマラヤ・ランタンリルン]

11月29日(土)
ラマホテルからランタン(高度差980m)

昨晩は床下で暴れる鼠騒動に睡眠を妨害される。睡眠不足気味。
相変わらず天気には恵まれている。今日も快晴だ。ラマホテルには下からシェルパロッジ、ラマホテル、ラマゲストハウスが街道沿いに並んでいる。我々の泊まりは真ん中の一番小さなロッジだが、英語版のガイドブックでは小さいが快適だ、と書いてあった。確かに食事なども気を使ったメニューだった。ロッジに沿って登っていくと白馬が立ったまま寝ていた。毅然とした姿勢で微動だにしない。カメラを構えて近づくと首を僅かに動かした。しかし警戒するではなく大人しくしている。まるで神馬のようだ。

ロッジは大家族だ。日本語を多少話せるお爺さんと息子夫婦、その息子と家族の一員だかどうか見分けの付かない数人の男がいた。お爺さんは日本の事情にも詳しい風。きっと日本人トレッカーが彼と交流した結果なのだろうか。部屋には新幹線の写真が貼ってあった。彼の、日本そして日本人に対する好奇心は旺盛で鋭い感性は見事。こんな山奥でなければきっと素晴らしい活躍が出来たはずと余計なお節介をしていしまう。

8時には出発という予定だったが、朝飯の用意が遅くなり予定は大幅に遅れて9時一寸前の出発となった。今日は5時間半ぐらいの行程だから目くじら立てることはない。樹林帯は続くが鬱蒼とした感じではなくなる。暫く歩くとV字の谷間から岩の上に雪を頂いた峰が目に入る。漸くヒマラヤらしい景観だ。先ず見えたのはランタンⅡ(6,561m)。エベレスト街道で圧倒されたような迫力はないが、厳しいなかに穏やかな雰囲気を漂わせている。そのうちランタン・リルン本峰(7,225m)がⅡの右手に見えてきた。ランタン谷のクライマックスが近づこうとしている。

1時間半でグムナチョーク(2,800m)のロッジだ。ランタン・コーラの右岸で一寸フラットな地形にある。道を挟んで右手にキッチンと売店、左手に宿泊小屋だ。小屋の前は日溜まりとなっていて、いかにもシェルパ族とおぼしき青年がチベタン・ギターをつま弾いている。素朴な憂いを秘めた響きはこの地に相応しい。彼の雰囲気がなおさらその感を深める。

一休みしてグマナを経由してゴラタベラ(2,970m)へ向かう。ゴラタベラも広大で平坦な草原状で、長閑な雰囲気。ここでJAL・OBのグループに再び会う。ここで一休み。ここが最後のチェックポイント。再びパスポート番号の記載とサインをして前進する。1時間程度でタングシャップ(3,140m)だ。多少の木々はあるが樹林帯から低草木地帯に移っていた。ロッジが数件あるその一つに入って食事をする。

サンルーフのある暖かい場所で食事だ。少し食欲が落ちてきた。茹でたじゃがいもを頼む。皿に一杯盛って出てきた。小さいサイズだが口にしてみるとこれがなんと旨い。金時イモと言いたいぐらいに黄金色したじゃがいもだ。こんな美味しいじゃがいもは食べたことがない。ヤクの糞を使った有機栽培とでも言えようか、頬張りつく。いくつ口にしたかすっかり満腹になってしまいその挙げ句に眠気が襲ってきた。
ランタンまでのルートは着実に高度を稼ぐルート、アップダウンが少なく快適なトレッキングだ。直ぐにチャムキ(3,240m)を通過し、ひたすらランタンを目指す。あと300mの高度を稼げばランタン(3,430m)だ。気が付いてみるとV字状の谷は大きく開いて左手には岩が剥き出した山稜が見事にそそり立っている。まるでヨセミテの山を見上げている感じ。岩を縫って何段にもなって滝が落ちている。見事な景観だ。しかしここでは主人公の滝というより、それをアクセントにした広がりのあるランタン谷のパノラマに圧倒される。
世界の屋根ヒマラヤの真っ只中にこんな長閑なゆったりとした空間があるとは想像も出来なかった。まるでヨーロッパアルプスの一風景と言ってもおかしくない。 ティルマンが“世界一の谷”と言った理由はそんな親近感もあったのではと思われる。1時間半でランタンに。着いたのは5時頃だった。“ここにはホットシャワーがあるので是非使っておけ、暫くはそんな設備はない”と言われてシャワールームを使うことにする。いざ使おうと行ってみると既にポーターのオルンが先を越して使っていた。オイオイ、お前はポーターだろう。と言いたかったが若いし、お洒落な彼としては身だしなみは大事なのだろう。若気の至りとして許そう。 その後、改めてシャワールームに。道路に面したところに小さな小屋があり、ソーラで暖めたお湯を使っているとのこと。だから使用量には限りがある。ノブをひねったらなんと水ではないか。全裸でいざと構えていたが、身体の一部を濡らしただけだったので幸い凍り付くような思いはしなかった。それにしても寒い中、冷えた汗と冷たい水。今思い出しても身震いしていまう。オルンが限りあるお湯を使い切ってしまったのだ。 ランタンは奥地にしては大きな集落で、我々が泊まったロッジは下部にある。前方にはランタン・リルンが見え始めている。
美しい山だ。当然ここのロッジもシェルパ族なのだろう。顔つきは日本人に似ている。自家発ではあるが電力が使える数少ないエリアなので、カメラのバッテリーやパソコンの充電をする。


⑥ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド [ヒマラヤ・ランタンリルン]

11月30日(日)
ランタンからキャンジンゴンパへ(高度差460m)

6時に起床。いつも8時ぐらいには出発という計画だが食事の段取りが悪く今日も8時50分の出発になる。今日は一日の行程が4時間弱。高度との戦いはあるものの楽な行程だ。
ランタンは道に沿って細長く延びた集落。湿地帯もあったり、牧歌的な景観だ。ここまで来ると家畜はヤクになる。


3,000mを越すとゾキョやバッファローには環境が厳しい。ヤクは何十センチもある毛を持った牛の一種で、防寒対策は完璧な動物だ。おっとりとした感じは親近感を覚えるが気性は激しいそうだ。辛うじて残っている草をのんびりと食んでいた。湿地帯に流れ込んでいる小川を徒渉する。顔を出している岩伝いに対岸に渡ろうとしたが、その岩がなんと凍っていた。予想外の展開で足下を失い片足を水の中に突っ込んでしまった。幸いストックのお陰で片足だけが水没。靴の中まで水が入ってしまったかと心配したが浸水は逃れた。この寒い中、濡れた靴で歩くのは辛いし靴下の交換にもなると面倒になるので助かった。大事に至らずちょっとしたハップニングで終わってホッとする。
道筋にはマニストーンが長城のように続く。


マニ石をしきたりに従い幸運を祈りつつその左側を歩いて進む。V字状の谷の左側に際だったランタン・リルンが天を突き上げるように聳えている。ムンドゥ(3,410m)、シンドゥム(3,410m)の集落をそしてヤンプー(3,640m)の村を通過してなだらかなトレッキングを楽しむ。右手にはガンジャラを経由してカトマンドゥに通じるルートがあると聞いた。この南下するルートの西側にこれからチャレンジするコサインクンドがある。


長閑なランタン谷を取り巻くように6,000m級の急峻な山々が聳えている。本当に美しい景観だ。ランタン・リルンの氷河の水を集めたラジャコーラを渡り確実にそして徐々に高度を稼ぐと、遠くにキャンジンコンパの集落が目に入った。いよいよ最後の一寸した上りだ。幸い高山病の気配もなくここまで来られた。1時にロッジに着く。
ロッジの前は広々とした広場があり、テーブルと椅子が置かれている。風もなく椅子に座っているとウトウトしてしまうほど暖かい。左手には明日挑戦する小高いピーク(4,350m)があり、そのピークからはランタンリルン、ランタンⅡ、そして氷河が眺望できるベストビュ-が望める。明日の晴天を期待する。そして少し左に目を回すとゴンパがある。クーンブ地方最大と言われたタンボチェにあったコンパに比べてたらはるかに小さなものだ。
午後はトレッキング中唯一ののんびりした時間になる。これからの厳しい行程に備えて今までの疲れを癒しておこう。長いすに横たわり昼寝をする。時々人々の声が聞こえる以外音らしい音はない。遠くから伝わる渓流の音が心に染み渡る。なんと幸せな時間だろう。 この平坦な空間に上部からホースが引かれていて、そこから勢いよく水が出ている。村人は桶を胸に抱えたり、頭に引っかけて水汲みや洗濯に集まる。近づいて水に触れてみると生暖かい。上部にあるソーラで暖めているとか。こんな奥地でも近代技術の恩恵を受けている。交通の便もない、近代社会とは隔絶した世界なのに近代文明の恩恵とが混在してる不思議な世界だ。 しかし、この近代化は恩恵だけではなく、プラスチック公害も持ち込んでいる。あちこちに使い捨てられたペットや缶が散乱している。トレッカー達が全て捨てたとは思えない。おそらくこの地で生活している人も荷担しているはず。地元の人にとっては生きるのに精一杯、便利さを追求するのはやむを得ないことなんだろう。日本でも道路際には缶やボトルが散乱しているのだから責めるわけにいかない。

昼寝から目が覚めると相棒がどこかに散歩に行ったのだろう、視界にはいない。ゴンパの前を通りピークの左側谷沿いにあるリルン氷河の方に向かって歩く。寝起きの所為もあるし高度もあるのだろう、何となく怠い気分でゆっくりゆっくり歩く。氷河が目の前に迫ってくるが、谷全体を見通す所にはなかなか辿り着かない。 あそこまで行けばと行くけどその先にまた先がある。適当なところで折り返し戻りかけたら、相棒が上がってきた。改めて氷河の眺望地を目指そうと二人で先に行くが、いっこうに変わらない景色に先に進むのを断念して戻ることにする。下山途上でゴンパを覗くが鍵がかかり中には入れない。冬は修行のシーズオフで使われていないそうだ。ゴンパの前には土産物屋があり、編み物が陳列されている。声をかけられるが、分からないふりをして素通りする。

1,2時間のんびりしたところでサンタの案内でヤクのチーズファクトリーを見学に行く。ロッジの直ぐ隣にある。中に入ると真っ暗だ。冬季は温度が低いので生産はしていない。乳を攪拌するなべや炉、そして製品の貯蔵棚などを見学させて貰う。チーズを少しだけ買い求め食してみた。ヤクの乳だから癖があるのではと一寸構えたが、意外にも癖のない美味しい味であったのには驚いた。


体力的にまだ余裕があるし、休暇の関係で後半の日程を無理して短縮しているので、ガイドブックや地図を見ながら後半の日程の見直しをする。当初の計画ではキャンジンゴンパでもう一日ゆっくりしてから下山する予定になっていたが、先のことを考えて短縮することにする。

ランタンリルンを眺望出来るピーク、キャンジンリに上ることになっていたが、ゴンパから見えている手前のピーク(4,350m)迄行けばそれに匹敵する眺望が得られることが分かったので、キャンジン・リの登頂を断念して手前のピークまでの行程にする。そうすれば明朝一番でそのピークに登り、その後朝飯、そしてラマホテルまで下る、ここでの一日短縮が可能となる。

高山病の気配らしき症状(後頭部が軽く痛みを感じる)が出ているものの、敢えて言えば、という程度だ。前回ナムチェバザールで体験した症状に比べれば軽い。この程度なら誰でもがなる症状だ。体調はまあまあ快調。ただ気になるのが腹の具合。徐々にではあるが胃が油っぽい物を受け付けなくなってきたし、下痢までは行かないが腸の調子も下降気味。
明日からは持ってきたお茶づけ海苔にご飯をベースのメニューに変更だ。


⑦ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド   [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月1日(月)
キャンジンゴンパからラマホテル(高度差-1,460m)

6時半朝ご飯をしてロッジを出て展望テラスに向かう。荷物は簡単な防寒具とカメラ、ビデオなど。オルンは”ズル”と言うことではないだろうけどお休み、ラスクマールが重い荷物を背負ってくれる。彼はいいガイドだ。重い荷物でも遅れることなく文句も言わない。それに比べてオルンは最近ガイドの資格をガーレ(ツーリストのボス)から貰った事もあるのだろう、心の中ではいまさらポーターなんか、と言う気持ちがあるようだし、そもそもポ-ターとしては非力だ。前回のエベレストの時でも身勝手な動きが多くてペースがなかなか合わなかった。今回はそれが一層顕著だ。

4人で左手にあるゴンバを目ざし、直ぐに右手に道を探しながら高度を稼ぐ。道と言ってもヤクの踏み固めた跡が有るだけで、どこが道と言うより適当に真上にあるタルチョを目ざして高度を上げていく。さすがに空気が薄い。息が上がる。太陽が上がってきたので日差しが暖かいが気温は氷点下。指先が冷えて痛い。ジグザグでピークを目指す。丁度ランタンリルンの前にはだかるピークを登っているのでランタンは目に入らない。村の景色がだんだん小さくなり、鳥瞰出来るようになってくる。1時間半はかかったかピークに着く。相棒はますますマイペースで動く傾向が強くなっている。今回も離れて自分のペースで歩く。高山病にならないため、と言っているが、山での歩き方としては感心できないことだ。

ピークでは360°の展望が出来て素晴らしい。一番右手にヤラピーク(5,500m)その左手にランタンリルン、そしてブリッジになってランタンⅡに繋がる。そこには氷河が二本落ち込んでいる。

右手がキムシュン氷河、左手にリルン氷河。氷河特有の青みがかった色、アイスフォールが波打っている。






このピークの先にキャンジン・リのピークが続く。4,773mの高さだが、登りは一寸きつい割には景色はこことさして変わらないそうだ。右手には広い河原に雪が覆っている。ヘリポートがあるそうだ。その右手に目を移すとガンジャ・ラ経由でカトマンドゥまで通じる5日間のルートがあるが、冬季は危険でしかも途中には宿泊する場所もないので食料、テントなど重装備が必要なルートだ。そして更に右手に振れば歩いてきたランタンまでのルートが続いている。

ランタンの山々から水を集めて轟々とランタンコーラが畝っている。サンタがポットに入れてきてくれたコーヒーをすする。身体が温まる。嬉しい配慮だ。写真を撮りまくり1時間ほど休んだだろうか。風が通り体感温度は非常に寒く感じる。タルチョが翩翻と翻って音を立てている。
キャンジンゴンパへ1時間ほどで下りる。9時早速朝ご飯だ。お茶漬けにゆで卵、そして茹でたじゃがいも。タングシャップで食べた味を想像しながら口にしたがあの時の興奮がない。確かに芋の色が普通になったし、水っぽい。期待はずれであったが他に食べるものもないし我慢。昨日買ったチーズをチベタンパンにのせて食べる。これは上等だ。1時間かけてゆっくり食事を済ませると荷物を整理して下山の準備。今日は2日がかりで登った所を一気に下山することになる。10時に出発。のんびりした下りだ。

ランタンの村に入り泊まったロッジで食事をする。1時で日差しもしっかりあるのだが、外での食事はさすがに寒い。1時間以上のんびりしただろうか、2時半に出発。下りはどうしても徐々に谷間に入っていくので日差しが早く落ちていく。4時も過ぎるとただでさえ陽が落ちて暗くなるうえ、樹林帯に入るので暗さは一層だ。道は確かだし、ガイドがいるので不安はないが、仮に一人でこのような状態になれば不安と恐怖が襲ってきたことだろう。鬱蒼とした樹林の中をひたすら足を運ぶ。漸くラマホテルに着いたのは5時40分だった。前回泊まったロッジに入る。好きな部屋をと言われたので奥の部屋を取る。実は前回泊まったときには夜中に鼠との格闘が始まってえらい迷惑を受けた事を思い出し、せめて別の部屋を選ぶ。だから問題が解決するとは思えなかったが。早速食堂で暖を取る。食堂には既に大勢の客人だろう、5人の男がくつろいでいた。前回とは違った賑やかさだ。
ここのご主人は本当に気持ちの良い親父さんだ。往路でここに泊まったときに買い求めた懐電の電池があっという間に消耗して使い物にならなくなり、改めて買わざるを得なくなったとクレーム気味に言うと、予想に反してタダで新しいのと交換してくれた。ご主人からみればこの仕入れコストは転嫁できないのに損を覚悟の上で交換に応じてくれた。損得を無視した善意に感動した。


⑧ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド   [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月2日(火)
ラマホテルからトゥローシャブル(高度差-400m,+570m  )

今日はトゥローシャブルへの分岐点までは往路を下山するだけだし、高度的には2,340mから2,210mへアップダウンがあるけれどさほど困難なル-トとは思えないが、最後のトゥローシャブルまでの上りだけがタフになりそう。

薪が燻る煙に包まれた食堂に向かう。中ではみんな慌ただしく一日の出発の準備だ。我々の食事の用意の他に自分たちのの主食であるチベタンブレッドを焼いたりしている。暖炉用の薪ストーブの上に置いては加減を見て新しい生地に置き換える。ここに泊まっていた人々は山羊を売りに街に行っての帰路だったり、どこかに行くか、どこからか帰ってきた人々のようだ。

彼らはチベタンブレッドにチベタンティーの朝飯。50cm以上ある筒にヤクのミルク、チーズ、そして紅茶を入れて棒を突っ込んで攪拌したものだ。折角のチャンスなので一杯所望する。正直言っておそるおそる口にしたが、意外や普通のミルクティーに比べてこってりしてはいたが、こくが有って美味しかった。とは言ってもお代わりを頼むほどではなかったが・・・・。
9時半ラマホテルを発ち、一路ランドスライドロッジへ。2,340mから1,640m迄下る。ひたすら下るだけだ。ランタンコーラは氷河に発した水を集めて激しくそして豊富な水量で圧倒する勢いで流れる。流れは岩に阻まれ盛り上がり、あるいは先を阻まれ流れを変えながら見事な景観を作っている。


樹林も背丈が高くなり、バンブーも繁茂している。バンブーロッジが近いことを教えてくれている。そそり立つ岩にしがみついている蜂の巣、数十匹の猿との出会いのあった場所を通り過ぎる。
ポーター達がやけに遅れていた。橋を渡った所にある岩に背を当てながら暫く待つ。橋を渡るポ-ターの表情に苛立ちを感じた。よく見ると自分のザックを持っていたオルンがザックを背負うベルトが切れてしまい、片側だけのベルトで背負わざるを得なくなっていることが分かった。ガイドのサンタは応急処置をして先ずは下山する。さすがにガイドは単に道を示すだけではない。起きるであろう災難への対応力が必要。若いオルン、今回はポーターではあるが既にガイドの資格を持っていてもこんな時の対応力では格段に力の差があり、正直言って彼にガイドを頼む気にはなれない。
しかし、取りあえずの応急処置なのでしっかりした処置が出来ないとこれからの長丁場を乗り切るのに不安がある。山岳なので自分で持っている材料で対処するしかない。11時半にバンブーロッジに着く。先ずは一息入れながら、ザックの対応に頭を痛める。結局は外れたベルトを縫いつけることになった。サンタはロッジから針と糸を借りてきて糸を数本束ねて強化した糸でしっかり縫いつけた。ザックの生地が厚く、針が曲がったりなかなか捗らなかったがなんとか縫いつけることに成功した。そんなことで1時間以上をここでロスしてしまった。出かける準備が出来て食事は後にして先を急がねばならない。
パアレ(Pahare)ロッジは尾根の襞の上にあり、眼下に下山ルートが見られる場所だ。ロッジとしてはほとんど機能しない佇まいで、おそらく休憩しかできないバッティーだ。ご婦人一人でやっているのか、サンタの馴染みの店なのだろう。既に2時を回っているのでここで食事になる。 クロネコが彼女の唯一の相棒か。数ヶ月前に遠くの集落から貰ってきたとか。彼女一人では時間もかかるということだろう、サンタが材料を指示し手元に材料を集めて料理を始めた。それぞれの注文に応えている余裕がないので、全員ダルバートになる。香辛料をすり鉢ですりながら炉では圧力釜でご飯を炊き、見事な腕捌きで着々と料理が進んでいくとはいうものの、一からの手作りなので時間はかかってしまう。


調理場があるわけではなく、まな板(?)を地面に置き包丁で叩き切ったり、そこに家畜の鶏が餌探しに入ってくる。まぁ、衛生とはほど遠い光景だが、この際拘ってはいられない。新型インフルエンザとかSARSの発生する環境はどんなことか理解できてくる。でもだからどんな対応が可能かと言われると難しい。なぜならそのような環境を否定することは彼らの生存権を奪うことにもなる。
ガイド達の手作りの料理は手抜きの無い料理でとても美味しかった。サンタの腕には関心した。そう言えばトレッキングで最高の贅沢はテント生活で料理人を連れて行くことだ、と言われたのがよく分かる。材料も持って行き、トレッカーの好みに合わせてくれる。
ここで食べたダルバートは後も含めてネパールで食べたなかで一番と言っても過言でもないだろう。
時間を掛けた料理のこともあって3時近くになった。最後の登りのことが気になる。ロッジを出て暫くするとまっすぐの道と沢に向かって下りていく道の分岐点に来る。往路は右手の道から上がってきたが、トロゥーシャブルへは真っ直ぐな道を行く。
単純な計算では1,610mから2,210mへ600mの登りだが、コプチェ・コーラを越えるためには一旦沢まで下りなければならない。250mの下りと登りがある。

しかし、ラマホテルからは一日行程でシンゴンパ(トロゥーシャブルの先)まで行くことが普通だから今日の日程は何とか消化出来るはず。ルートの分岐から暫く登ると稜線に出る。そこにはバッティーがあった。谷を挟んだ向こうに逆光を受けてトロゥーシャブルの集落が見える。後ろを振り返るとランタン谷を囲む山々が夕陽を受けて輝いていた。そこには数軒の家があり、ゾーキョの牧畜を営んでいる。木々に隠れて見えないが、ゾーキョの声や草木をかき分けているガサガサという音が聞こえる。バッティーで一服し先を急ぐ。暫くはコプチェコーラを渡るためにひたすら下る。遙か下に橋が見える。そして対岸には集落が。

手に取れるところに見えるがこの上り下りは精神的にはプレッシャーだ。相棒は相変わらずマイペース。お先に、と言って先行。最下部まで下りると仮設橋が渡されている。その先には恒久的に作った積もりの橋脚だけが残っていた。モンスーンで橋が流されてしまったそうだ。ここから最後の集落までの登り。さすがに足が重い。しかし、耕された畑の最下部に辿り着くと後は畦道を縫うように高度を上げていく。牛を小屋に誘導している子供達や遊んでいる子供達に出会う。久しぶりの本格的な集落だ。




ロッジに着いたのは5時40分。すっかり周囲は陽が落ちて肌寒くなってきた。今日はホテル・イブニングビュー。この集落は数少ない自家発の電力が供給されていて、ホットシャワーも使える当地では近代的なエリアだ。この先ではシャワーと充電が出来ないので、今回はポーターに先を越されないうちに早速シャワーの準備をする。ここのロッジは造りも良く石造りですきま風も入らない。電気もふんだんに使える。食堂にはテレビまである。そして子供達はビデオを再生したりして楽しんでいた。ここでは一寸だけ近代化の波が押し寄せていた。ホットシャワーは充分な温度があって快適だ。今回のトレッキングで初めての石けんを使ったシャワーを満喫した。


⑨ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド   [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月3日(水)
トロゥーシャブルからラウルビナヤク(+1630m)

尾根に沿って街道が走り集落が連なっている。街道から一段低い所にロッジ・ホテルイブニングビューがある。その街道を右手に尾根を下ればシャブルベシの町に続く。左手に行けば今日の目的地のラウルビナヤクに至る。ロッジの女将さんと別れて出発だ。町中を進むとY字になって道が分かれている。その分岐点には水場があり、多くの村人が水を求めて三々五々来ては帰っていく。水を使って回転させているマニ車もある。

分岐点を右にとり左手に果樹園を見ながらいよいよ登坂だ。既に周囲は人家がまばらとなる。暫くはきつい登坂だ。道もいくつかに分かれていてガイドがいないとうっかりしてしまう。でも、このあたりなら少なくとも住民がいるので安心だが。
樹林帯の中を一歩一歩喘ぎながら登る。歩き始めで調子が出る迄は九十九折りの登りはきつい。息が上がってしまう。暑くはないが風も通らず汗が出てくる。先ずは自分のペースをわきまえて前進だ。30分ほどで村を一望できるチョウタラ(道端に歩行者が腰掛けられるようになっている石を積み)がある。
ポーター達は無邪気に自由気儘なルートを探しては早足に先を行く。さすがに山岳部族・若者のタフさを見せつけられたけれど、若いからやむを得ないだろうが、自分に余裕が無い時には多少苛つく現象だ。どんどん標高を稼ぐ。ラウルビナヤクには途中から別れて直登するルートもあるが、登りに使うには負荷が大きいのと道が分かり難いこともあってシンゴンパ経由が一般的だそうだ。さらに1時間進むと尾根に出てそこには茶店がある。ヂュルサガン(2660m)だ。ここからの視界は最高だ。後ろを振り返ると右手にはランタンリルンⅡからランタンリルンへとつながるランタンヒマールの山々が手に取るように視界に入る。この時間だと水蒸気も上がってないのですっきりとした凛々しい姿は印象的だ。

ここで一休み。思いっきり写真を撮りまくる。ここからの登りは稜線に沿ったトレイルだ。なだらかな登りになる。高い樹林帯、苔むした足下を一歩一歩前進だ。左手の大木の幹の間からランタンの山々が美しい。木の間隠れに見える。樹林帯を2時間程登ると平坦な開けた場所に出た。そこはポプラン(3,210m)だ。2軒の小屋が並んでいる。ヘッドバンドや手袋など土産物が無造作に並べられている。ここの雰囲気は南アルプスとか奥武蔵の山を歩いているような感じか。行き交う人々は全くない。ここではキャラバンと出会うこともない。樹林帯の中を一歩一歩喘ぎながら登る。
ここはまさに山奥、どこかへ通じる街道筋ではないからだ。ポプランは交通の要所。そこから右手に下るとブラバルを経由してドウンチェに至るルートと左手のルートを取るとラウルビナヤクへ至る道だ。遙か右手眼下にはかすんでドウンチェの集落が見える。ここからも樹林帯の中を先に進む。せせらぎが流れている、ウエットな環境に苔むした場所もあり、キノコ類も育つような環境。ガイドによればマッシュルームが採れるエリアだそうだ。マッシュルームを材料にした昼ご飯でも挑戦してみたい。樹林帯が開けた頃、1時間ほど歩いたか昼前にシンゴンパ(チャンダリバリ=3330m)に着く。数件のロッジが道に沿って両側に建っている。我々は右手にあるロッジに入る。

昼の休みを取っている間に俄に天候が急変した。一気にガスがかかり周囲を見通すことが出来ない。これから先の不安を抱えながら、先ずは腹ごしらえ。早速当地名産と言われるマッシュルームの有無を聞く。幸い有るとの返事だったのでマッシュルーム入りの焼きめしとスープを頼む。食堂にあるストーブに手をかざしたりして暖を取る。チャを飲んだり、雑談をしているうちに食事の用意が出来る。期待した焼きめしを見るといわゆるマッシュルームとは似て似ざるものだ。黒くて小さいし、肉厚がない。口に入れてみたが、予想以上に美味しい。山に入ってポテトと並ぶ感激だ。その土地らしいものを口にすることが無く、どこに行っても同じメニューだからここならではの素材は嬉しいこと。変な話だが、どこでもメニューは印刷した共通のもの。後は料金だけを手書きしているだけだ。そんなことにここで気が付いた。マッシュルームが気に入ったので買い求めようとしたが残念ながら断られた。きっと貴重品なのだろう。我々はここに泊まるわけではないが、表示を見たら泊まるのはご自由に、出発時にご自由に宿泊料を決めて箱に入れくれればいい、と書いてある。一寸不思議な気分だ。
雨に備えて雨具を身につけて1時過ぎて出発だ。なだらかな道に沿って集落があり、その先左手にゴンパがあった。ゴンパは小さく、鍵がかかっている。これからの幸運を祈って先に進む。なだらかな登りを霧雨が降り続く中前進だ。一寸腹の具合が気になる。音を立てて雨が降るわけではないが、霧が顔を伝わってなんとなく全身がじっとりと濡れてくる気分だ。幸いしばらくすると霧も晴れて徐々に視界がきいてくる。
残念ながら出会うことがなかったが、このエリアはレッドパンダのサンクチュアリーになっているそうだ。周囲の樹林もだんだん背丈が低く、疎らになってきた。気が付くとガスも上がり、視界がきき始めていた。平坦な空間が開けた所がチャランパティ(3650m)だ。ここで久しぶりに人と出会う。若い現地人のカップルだ。仲むつまじい二人はカメラに気が付いて是非撮って欲しいとせびる。喜んで頼みを聞く。今回に限らないが液晶に映し出される自分たちの姿に驚愕し、歓喜する。けっしてそれが彼らの手元に届くはず無いのだがそれでも嬉しいようだ。ここで一休み。すっかり雲も切れ明日向かうコサインクンドに向かう尾根状のルートが視界にはいる。

その中腹に今日の目的地であるラウルビナヤクの小屋も見える。気が遠くなるような彼方だが、目的地が確認できるのは安心だ。数軒のバティがあって、ヒマラヤらしいおみやげ、バンダナやスカ-フ、手袋、セーターなどなどを売っている。
あと標高差約300mの登りだ。丁度北アルプスの東鎌尾根の先に槍があるような景観。目に見えるのは安心感を与えるが、登る身になると苦痛でもある。まだまだ先があるのが分かるので精神的にプレッシャーになるからだ。ここまで来ると樹林帯はすっかり影を潜め、岩肌と背丈ほどの低草木になる。九十九折りで一歩一歩足を進める。足は重いしやはり高山での運動能力限界なのか身体全身が重い。思うように足が進まない。既に夕陽が傾きかけたころ、ラウルビナヤク(3920m)の一番下にあるホテルマウントレストに着く。ここが今晩の宿だ。シンゴンパの悪天が嘘のようにここでは天空に雲一つ無く眼下には綿のように雲海が敷き詰められている。なにしろ素晴らしい景色に圧倒される。左手にはランタンの山々が夕陽を浴びて赤く染まって美しい。左に目を回すとチベットの山々、さらに後ろ、日の落ちる方向にはマナスルヒマールとその左肩奥に小さくアンナプルナ山群が雲を突き破って聳え立っている。天国のようなこの景観、ヒマラヤでも最も美しいビューの一つと言われている。ソルクーンブ(エベレストエリア)のような圧倒する迫力では負けるが、この広がりはなんと言っても素晴らしい。270°の展望をしばらく静かに満喫した。そしてマナスルヒマールの後ろに太陽が落ちても残照に照らされた景観は違った趣をもって美しい。

ロッジは多くの外人トレッカーが既にチェックインしていた。今までほとんどトレッカーとは行き交わなかったのに、ここまで来るとトレッカーが数少ないロッジに集中するからだろう。トレッカーの姿が目に付く。二階建てで2階の中央部、下からの煙突が部屋を通過する所を選ぶ。煙突一本で暖を取れるほどの効果を期待できないのは分かっているが、いざとなったら煙突に手をかざして暖を取ったり、少しでも暖かいものがあるのは有り難い。2階にはテラスがあり、そこからランタンを鑑賞する事が出来る。
日が落ちると一気に冷え込んできた。手がかじかむし、吐く息も白い。さすがにここは約4000mの高山だ。そして高山特有の息苦しい感じも出てきた。今晩熟睡できるのかが心配になった。
夕飯を取って部屋の外を見ると満天の星。星座の確認が出来ないほど全ての星が輝いていた。ここではロッジ以外には明かりを発する所もなく、数少ない明かりも懐中電灯ていどだ。パートナーはカメラを持ち出して深夜の山々を撮りまくっていた。


⑩ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド  [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月4日(木)
ラウルビナヤクからペディへ(+540m、-1210m)

さすがにここは高山。空気が希薄なので何かにつけて息苦しくなる。とりわけ就寝中の息苦しさは睡眠を浅くするので神経的に参る。昨晩も何度も息苦しさに目を覚まされた。酸欠の金魚が水面に出てアップアップするのに似ている。息苦しくなると何度も深呼吸をする。そしていつの間にか気がつかないうちに眠りについている。それを何度も繰り返した。快眠は得られず寝られたのか寝られなかったのか自分でも分からない。


朝日を受けて正面にはランタンの山々そして登ってきた方面の遙か遠くにはガネッシュヒマール、マナスル・ヒマール、アンナプルナの山々が遠近を浮き彫りにして黄金色に輝いている。
この先はまさにアルプス的景観のなか岩をぬって作られた道を九十九折りで一歩一歩登る。朝一番で調子が出ないうちの4000m超えは辛い。鉛のような足を運ぶ感じだ。ルートはいくつもあってどれを選んでも間違うことはない。しかし、どこでも選べるというのは不安にもなる。ガイドがいるので安心だ。ここではそれぞれマイペースで登っていいと指示が出る。各人それぞれのペースで歩く。独りぼっちになると不安が過ぎるが信じて必死に登っていくと、石造りの祠が見えてきた。近づいてみるとチョルテン(4100m)だ。


中にはヒンズーの像(仏像に見えたが)が鎮座している。一息入れていると3人のネパリーの青年が上から下りてきた。会話を楽しみたかったが、わざわざ通訳でもあるまい。ナマステ!と声をかけただけで済ませる。彼らは荷物を持つわけではなく、ゴム草履に鼻歌交じり、と言う出で立ち。あと標高差で300mの登りで今回の最大の目的地の一つ、コサインクンドの湖に辿り着くはず。
暫くは辛い登りが続くが稜線から少しずつ右手方向トラバースになってなだらかな登りになる。眼下には数ある湖の一つ、サラスワティクンドが視界に入る。ここから先は冬季にはしばしば雪が積もりラウルビナパスを通過できないことがあるとか。幸い、12月初旬でもあり今回は雪のリスクは無さそう。高度を上げていくといくつかの湖が続く。バイラブクンドそしてコサインクンド(4460m)に。

紺碧の水をたたえた神聖な湖、地勢的に考えて噴火湖ではなさそうだ。それほど深いとは思えないが、どこまでも深く底なしのように見える。ヒンズー教徒の聖地として崇められているのが理解できる。ヒンズーのお祭りの時には多数の信者が詣でるとか。当地には数件のロッジがルートに沿って並んでいる。数人のトレッカーがいた。昼時なのに何故かここでは食事をしないでチャとお菓子で腹ごしらえ。日向では母親と娘が手編みをしている。セーターだろう、娘の手にかけられた毛糸を徐々に手繰りながら母親が巧みに編み込んでいる。


コサインクンドはロッジから下ったところあって、シバ神がまつられている湖だ。湖岸にはいくつかの寺院とヒンズーでよく使われる赤い塗料があちこちに塗りたくられていて祭りの盛り上がりが想起される。標準のコース予定だとラウルビナヤクからコサインクンドで一泊するのが一般とか。その翌日はゴプテ(ペディより先)を目指す。我々の計画は一気にゴプティだから一寸だけハードになっている。
小一時間日向ぼっこをしながらの休憩後出発。右手にコサインクンドの湖面を見ながらシバ神を祀った祠の前を通って徐々に高度を上げていく。岩をぬって雪解け水だろう流れ落ちている。道しるべに石積みがあったり、ヒンズー特有の赤の目印がルートを示している。流れが所々で氷になって固まっている。凍ってない岩を探しながらの足場探し。それほど傾斜地ではないので大したトラブルになることはないが一寸緊張する場面だ。コサインクンドの湖面奥ではすっかり氷結していて白くなっている。

しばらく登るとコサインクンドから離れて小さな湖が道の左右に点在している。コサインクンドゥが完全に視界から消えるころに右手下にスルジェクンドが見えた。右手の稜線もこちらの稜線に寄せてくる。そして前方の鞍部が最高地点のラウルビナ・ラ(パス=4610m)だ。最後の登りに気を入れて登る。ラウルビナ・パスにはルート右手に岩を積み上げた避難小屋があった。コサインクンドから1時間半の行程だった。最高地点踏破という緊張より、余りにもあっけなく実現したことに拍子抜けだ。ここでしばらく休憩。このパスを境にして前方は雲に覆われて山々を望むことは出来ない。後ろを振り返れば陽を受けた山々を見ることが出来る。パスの両側に伸びる稜線が天気の分水嶺だ。


30分近く休憩した後、出発。ここからは下り一方。暫くはなだらかな下りで足の調子も上がって順調に標高を下げていく。しかし、日射しが無くなって冷気が谷から上がってくるので汗が冷えて肌寒くなってきた。少なくとも雨だけは降らないで欲しい。この標高だと雨というより雪になるかもしれない。目先の視界はきくが、山並みを眺めることは出来ない。ひたすら足元だけを見ながらの下山になってしまう。しばらく行くと多少なだらかな広がりのあるところにベラゴ-ト(4240m)の小屋がある。ガイドはここで腹ごしらえをする積もりのようだ。しかし小屋というより工事中の掘っ立て小屋という感じ。中からはトッテンカンと作業の音。小屋の中は埃が充満し、居心地が悪いが外は寒いしやむを得ず中に座って待ちかまえる。結局ここでの食事は出来ないことが分かり、ヌードルスープ(例のインド・ニッシン製のカップラーメン)で腹を満たす。そして大事にしてきたオレンジを貪り食べる。
でもどうしてこんな段取りになったのか分からない。コサインクンドで食べていれば時間的にも問題無かったはず。読み違いの理由が読めない。既に3時も過ぎて先を急がなければならない。早々に小屋を出てさらに先を急ぐ。空はますます厚く重い雲がのしかかってきた。さらに、足下を雲が走るようになった。視界が悪く周りの様子を観察することは出来ないが、北アルプスのガレ場を連想させる。道は細く尾根沿いに雲とガスで充満した中をひたすら下る。ガスの中に突然レリーフが見えた。日本人の名前と飛行機遭難事故の慰霊碑であることが読めた。1992年タイ航空のエアバスがこの山腹に激突して多数の死者が出た時に搭乗していた日本人のために建立されていた。なにか他人ごとではなく帰路の便が不安になってくる。 徐々に急な下りになってしばらく下りると小さな小屋が目にはいる。ベラゴ-トから1時間でフェディ(3,630m)に着く。規模の小さい小屋で、右手に宿泊小屋、左手には暖炉と食堂(小屋の住人の棟か)がある。宿泊小屋の各部屋のサイズがようやく二人が折り重なって寝られる程度だ。そんな部屋が4つあった。我々以外にはイギリス人3人のパーティーがいた。荷物を部屋に置き、暖を取るため別棟に入る。そこでは枯れ枝を燃やして暖を取っている。すでにイギリス人のパーティーが囲炉裏を囲んで歓談していた。しかし、男性一人は高山病で体調が悪いようだ。途中で寝室の方に戻っていった。彼らはヘランブー・サーキットでここまで足を伸ばしたようだ。ガイドも付けずに上がってきた。夕ご飯をとって寝る段になったが、あの窮屈な部屋に戻るのに躊躇した。狭いし、身体が十分温まっていない。囲炉裏の奥がガイドやポーターの寝床。そこはただござが敷いてあるだけだが、囲炉裏のそばだから少しは暖かいだろう。結局寝室に戻らずポーター達と一緒になって雑魚寝をする。用足しに外に出たら小雨がしとしとと降っていた。明日が心配だ。


⑪ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド  [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月5日(金)
ペディからタレパティ(-300m、+330m)

小屋のご主人によるとラウルビナパスあたりは昨晩の悪天で降雪がありパス越えが数日間難しい状態になっていると言っていた。まさに運というもの。一日のズレが計画を台無しにしてしまうリスクを実感する。昨日ラウルビナパスを越す時には越えられないという想定は全くなかった。図らずも慎重の上に慎重をと言う鉄則を忘れてはならないことを再確認した。
この先はその様なリスクはないだろう。これからの予定について昨晩ガイドと打ち合わせた。さいわい順調に行程を消化してきたので出来れば日程を短縮してカトマンドゥに早く下れないのかと聞いた。ところが彼は無理だの一点張りで埒があかない。どう見ても日程を短縮出来そうに思えるが、未経験の事だから強行も出来ない。話の裏にはどうも日程短縮となるとガイド料への影響を気にしている節があったのかもしれない。その辺を察して日程短縮でもガイド料には影響ないことを伝えてみたが相変わらずだ。
今日の行程は半日コース。急げば先に行けるはずだが、ガイドはタレパティでの日の出の眺望を見逃すのは勿体ない、ということで結局タレパティ泊まりとなる。昨晩下りてきた山稜を振り返るとガスの切れ間から山が覗く。


しかしあっという間にガスの中に消える。今日も不安定な気流だ。小屋の先は切り立った崖になっている。左手の深い谷に向けて一気に下降する。岩が濡れたところで凍っていて滑りやすくなっている。ハラハラドキドキ、手を添えて慎重に下る。






相変わらず雲が厚く足下をガスが這っていく。下りきって丸木橋を渡り左手に山を見ながらどんどん下る。周囲は竹が増えて群生している。日本にもありそうな雰囲気の山道を大きく下っては少し登る、それを繰り返して下っていくと2時間一寸でゴプティ(3440m)の小屋に着く。そこで昼ご飯をとる。幸い天気は悪化する心配はないようだ。さらにゴプティから30分は下っただろうか沢に出る。山容は穏やかな姿に変身。緩やかに右下がりの斜面の平坦な部分を横切っていく。そして楽しい緩やかな上りが続く。周りにはヒマラヤ特有のシャクナゲの群生が見られるようになる。しばらくするとなだらかな平坦な空間が拡がる。日本的に言えば神の田圃ということだろうか。ホットする空間、天然の庭園といえる穏やかな景観。晴れていたらもう少しは違った印象になるのだろう。でもガスが流れている方が幻想的かもしれない。多少のアップダウンを続けて小高い道の先に小屋が見えてきた。
ゴプティから2時間ほどでタレパティ(3640m)に着く。見上げた稜線の下に何軒かのロッジがあり、さらに稜線に沿って数軒の小屋がある。下の方の小屋は無人のようだ。我々は稜線上にある小屋に入る。ここでもほとんどトレッカーらしき陰はない。ガスが相変わらずだ。視界はきかず肌寒い。取り敢えず部屋を確保して囲炉裏のある部屋に行く。
ストーブには火の気が無く、寒々しい。ガイドに頼んで火をおこしてもらう。久しぶりのゆっくりした日程なので身体を休ませてやらなければ。ウトウトしたりガイドブックと睨めっこ。天気が悪く外に出て景色を見られるわけでもないのでじっとグダグダ。さすがに退屈な午後になってしまった。3時過ぎ頃か、イギリス人のカップルが入ってきた。彼らもヘランブー・サーキットで歩いている人たちだ。二人の関係についつい気が回ってしまう。気高い、一寸傲慢そうな女性とそれに傅く男性。男性は既に相当消耗しているようで(おそらく高山病の前兆)体調が悪いのに我慢して対応している姿に同情もし、二人の関係に気を揉みながらハラハラの連続だ。
いつも感心するのだが、白人は分厚い本を読んだり、チェスに興じたり、山にも自分の世界を持ち込んで楽しんでいる。我々はこんなときこそ普段の生活から距離を置いて非日常性を堪能したいと思うのだが、人それぞれというか、白人と日本人の違いなのか。
ヘランブー・サーキットとはカトマンドゥ郊外の山岳の穏やかな田園(棚田)地帯を散策する楽しいトレッキングのこと。そこを数日がかりで訪ねるコースで日本流に言えばハイキングとも言えるか。と言うことはここまで来れば山岳というより徐々にコミュニティーに近づいていることを示している。止まるような時間の経過に時間をもてあまし、にもかかわらず身体はホットしている不思議な時間が経過していった。
ガイドやポーターも一息入れているようだ。ロッジの住人達のたまり場でトランプをしたり、アルコールを引っかけて盛り上がっていた。
天気が良ければここからは眺望がきいてエベレスト方面の山々とかが見られるし、夜ともなればカトマンドゥ郊外の灯りも見えるとか。風も強く吹き、天気の回復の兆しは見えない。明日の好天を期待して床につく。


⑫ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド  [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月6日(土)
テラパティからチプリン(高度差-1,340m)

昨日よりは良い天気だ。日の出を前にロッジの前に出てみる。ヘランブーの山々、そして遠くにはエベレストを含むソル・クーンブの山群が見えるはずだ。しかし残念ながら東側は雲が充満している。後ろを振り返ると雲一つ無く見晴らしがきく。昨日下ってきたラウルビナ・ヤク・パスからの山腹が遮るものなくしっかりと見えた。見事な眺望。改めて霧と雲の中を歩いた昨日迄の足跡が確認出来た。そこにはタイ航空が墜落した場所らしきところも見られた。しばらくすると日が上りはじめ幸いヘランブーの山々の頂が雲海を突き抜けて朝焼け色を写しながら浮き彫りになってきた。しかしソル・クーンブまでの眺望は出来なかった。


小屋にはそれ程の宿泊客はいなかったのに気が付くとたくさんのトレッカーが美しい朝焼けに燃える山稜に感激の声を上げて集まってくる。他の小屋に泊まっていたのだろう。タレパティはヘランブー・サーキットを気楽に楽しむトレッカー達とハードな行程をこなしてきたランタン・コサインクンドからのトレッカー達が合流する接点だ。ここから下はネパール人の生活圏に入るということでもある。
昨日と反対側を尾根に沿って下る。気が付いたら岩肌の世界から樹林帯に入っていた。広がりのあるなだらかな下りの連続。緊張感はほとんど無く、ひたすらのんびりとした下りだ。あとは疲労との戦いでしかない。一寸うんざり。おそらくこれから先は距離だけを稼ぐための歩行になることだろう。1時間程でマーゲンゴート(3,283m)に着く。そこには3件のロッジ。ルートの不安も無いのでガイドとポーターを後に喉を潤して直ぐに出発。30分ほどか登り詰めると営業しているようには思えないロッジが一軒、その脇を通り抜けるて再び急な下りに入る。周りの木々も背丈が高くなる。そして下り坂は雨期には水路になるため背丈ほどに深く深くえぐられて右左に足場を移しながら跳ねるように下らなければならない。体重が足にかかり負担が大きい。踏ん張るのではなくリズムに乗って下りないと膝を痛めてしまう。日本の山でもよくある形状だ。オルンやラスクマール達もルートから外れて山の中を獣のように直下を目指して下りていく。そのスピード感はさすが。1時間半も下り続けたのか突然前方が開け牧草地が拡がる。やっと集落に着いたのだ。自然との戦いは終わった。ふぅっと緊張が解けていく。ヤレヤレだ。しかし後で分かったことはこのことが新しい緊張の始まりであった。
水牛が下から上げってくる。人里の匂いを久しぶりに感じた。段々畑が開墾されている。突然の展開だ。人里の雰囲気を感じてからなかなか集落は視界に入らない。20分下ると集落だ。ここがクトゥムサン(2,470m)。ヘランブー・シェルパ族の部落だ。集落に入りホッとした反面、一寸異様な光景に不安が走る。家々の壁に大きな字で英語のメッセージが書いてある。明らかにマオイストが書き込んだものだ。このエリアがマオイスト支配地であるとの記載が目に入った。

エベレスト街道では見なかった異様な光景だ。反政府軍の存在は何回も聞いていたし、カトマンドゥ市内の警戒ぶり、街道筋の検問から想像していたが実感としてなかなか理解出来なかった。正直言って最初は悪戯書き程度に軽く考えていた。しかし、現実はそう甘くないことを後で実感するのだが・・・・。 集落を通り左手のヘランブーの段々畑が眺望出来るロッジに入り、昼食を取る。1時半頃だった。突然の客に主人は慌てることもなくのんびりしたペースで食事の準備に取りかかる。残念ながら雲が覆っているので肌寒い。最初は庭先のテーブルに座り、ヘランブーの畑を眼下に見ながらお茶をするが、汗が引いてくると寒さが堪えてくる。ロッジに入り、食事の準備をしている厨房に入り、暖を取る。厨房の奥にはシェルパ族の宗教上の祭器や食器が棚に並ぶ。民族色が横溢している。
一人の白人青年が昼食を食べに入ってきた。彼もヘランブーをアラウンドしているのだろう。軽装なのでどこかに拠点をおいて、散策しているのか。
昼飯を0から準備しているので時間がかかる。2時半に出発。霧雨を肌に感じる。今日はどこまで行けるだろうか。ここからは稜線上をひたすら下る。稜線の両側には谷に向かって棚田が開墾されている。そして谷越えの稜線にも段々畑が。行き交う人々も増えた。でも我々に対して特段興味を示すわけでもない。1時間程でグル・バルジャン。天気は回復し高曇りになり、眺望も聞く。それ程厳しくない下りが2時間続く。きつい登りのあと峠に着く。一軒の茶屋がある。私は一足先に行く。そこからは何人がかりで漸く抱えられるような大きな岩の中を一気に下りていく。タイミング的に一歩一歩の歩幅が大きくならざるを得ず身体には大きな負担だ。ボッカが荷物を担いで上がってくる。登りは一層厳しいだろうがそんな素振りも見せずリズミカルに歩く。右手谷越えの反対斜面には日本では想像できない大きなスケールでランドスライドがあった。

モンスーンで崩れたのだろう、大きな自然界の厳しさを示す傷跡だ。途中で最後の一個のオレンジを口にする。美味しい。元気百倍だ。といっても足は鉛を付けたようではあるが。峠から30分で漸く平坦地に着き集落に入る。すでに陽が傾き薄暗くなってきた。サンタからここで泊まると聞きホッとした。ここはティプリン(2,170m)だ。
しかし、ティプリンは大きな集落ではなくまともなロッジはない。民宿と言った方がいいだろう。既に薄暗いなか突然の客にロッジの側も受け入れようか断ろうか困惑しているようだ。ガイドとの交渉が漸く成立して慌ただしく準備が始まる。ここにはほとんど客が来ることが無いような感じだ。蜘蛛の巣を払いながら寝室の準備だ。食事は土端にある囲炉裏を囲みなが料理を準備、かたわらラジウスでご飯を炊いている。ヤクステーキを注文すると、ロッジの息子だろうか真っ暗の夜道をどこだろうか買いに出掛けていった。
厨房には落ち着いた見るからに肝っ玉母さん風のおばさんが仕切っている。

ヤク肉をビニール袋に入れて息子が帰ってきた。綺麗な赤身の肉だ。見た感じ鮮度は保証される。肉が細かく切られ油を引いたフライパンで炒める。そして焼き飯だ。待たされたこともあるのだろう久しぶりの肉の味は格別美味しかった。しかし食べる環境は最悪。土端に敷いたまな板(擬きか)で料理をする、そこを鶏が行き来する、土端は乾燥しているから歩けば埃が立つ。囲炉裏の薪が燻って煙い。その囲炉裏を囲んで胡座をかいて食事だ。まぁ、これがネパール本来の生活だと思えば興味津々だ。これも経験。
家族が食べる食事はトウモロコシの粉に水を入れてかき混ぜる、それを繰り返しながらおじやの様にして食べていた。質素この上ない食事だ。でも、だからといって病気になるわけでもないし、鹿児島大学の丸山先生が仰る縄文時代から作られてきたDNAは貧困に耐えてきた遺伝子だ。むしろこれこそ人間のDNAに向いた食事なのかも知れない。夜になると霧がかかってきた。土間と外部を仕切っているのは薄い布一枚。外気が入り込んで肌寒い。夜半には細かい雨も降ってきた。


⑬ヒマラヤトレッキング ランタン谷とコサインクンド 完 [ヒマラヤ・ランタンリルン]

12月7日(日)~9日(火)
チプリン~パティ・バンジャン~チソパニ~スンダリジャル~カトマンドゥ(高度差-770m)そして関空(~羽田へ)

さすがにここまで下りてくるとトレッキングもネパールの人々の生活と一体となって山を歩く、人里を抜けていく世界だ。起きてロッジ前にある水道で久しぶりにゆっくり顔を洗う。この水道は集落の水源のようだ。三々五々村人が水瓶に水を入れて持ち帰る。その水で食事を作ったり、皿洗いをしたり、顔を洗ったりする。未だ霧がかかっているので視界はきかないが、人の行き来が盛んだ。何をする訳ではない人々がロッジの前に集まってくる。このロッジは売店もある集落の中心になるのだろうか。ロッジの前には老若男女が何事か話している。そこに小銃を持ったマフラーを頭に被った青年達が4人来て、売店に何か注文している。
食堂に入り、朝ご飯が出来上がるのを待つ。相棒は外で4人の青年達となにやら会話をしているようだ。暫く立ってから相棒が中に戻ってきた。
実は若者達がいわゆる反政府軍、マオイストであるとのこと。政府の問題点を指摘し、自分たちが如何に社会に貢献しているのか、地域社会を改革出来るのは自分たちだと主張しているそうだ。ガイドはかなり緊張した顔になっていた。そう言われてみると人々も一見にこやかに彼らと渡り合っているように見えるが、彼らが視界から去るとたちまち顔つきが曇り、忌まわしい存在が一刻でも早く去って欲しいと願っているようだ。ガイドが彼らに表に出るよう指示されて出て行った。数分経っただろうか、戻ってきて彼らからドネーションを求められているとの話だ。要求によれば4,000ルピーという。考えれば金額的には決して多額ではないし、深追いして身体的危険に及ぶ事は避けたい。日本語が通じないガイド、サンタでは緊張したやり取りが出来ないので英語と多少の日本語が出来るポーター、オルンに交渉を任せる。先ずはどこまで引き下げられるかだ。なんとか半分に値切るよう頼む。時間の経過が止まった凍り付いた時間の経過に数分とも十数分とも思える時間が経ってオルンが帰ってきた。さすがに彼の顔はマオイストとのやり取りで緊張しているのだろう、よく見ると青ざめている。交渉成立で2,000ルピーで合意。一人当たり1,700円程度の被害で済んだのは不幸中の幸いだ。ヒマラヤに入るには国に入山料を払うだけでなく、地域への貢献という入山料が別途必要と思えば割り切れる。これからはマオイストに会うことを前提にトレッキングを考えておけば済むことだ。
交渉成立したら彼らも成果があったのですっかり穏やか態度になった。仲間として迎えてくれた。

この貴重な経験を記録したいとの衝動もあり、彼らに写真を撮らせて欲しいと身振りで伝えると簡単に了解していくれた。最初は全員が小銃を抱えて一列に並んだポーズだ。撮り終わったらリーダー格だろうか一人の青年が小生に小銃の先を向けながら構えたポーズを取って写真を撮って欲しいと言う。反政府軍としては証拠写真が残ることに神経質になるのが普通ではないのか。そんな素振りは全くない。無事撮り終わり握手をして彼らはその場を去っていった。緊張感がふっと切れて村人はザワザワと会話が再開された。
後で分かったことだが、彼らがロッジで買い物をしていたように見えたが、実は飲み物、ビスケットを強要していたということだ。彼らが去ったことが分かると彼らに対するやりきれない不満が爆発。とりわけ直接的被害者になったロッジの家族はいつものことだからしょうがない、ヤレヤレ、と言う気持ちと、いい加減しろ!と言う怒りが見えた。彼らが言うほど地域社会と共存した政治活動には思えなかった。
思わぬ事件に巻き込まれたが8時半にはそこを出発。ここからは集落と集落を繋ぐ交通の要所のようだ。人だけでなく家畜の行き来、両側には谷に向かって開墾された畑が続く。山岳地帯という危険はなくなったが、社会的リスクは増大してきた。むしろ真のリスクはこれから始まるのではと言う不安が襲ってくる。


突然自動車も通れるような道になる。再び道が狭くなって丁度鞍部にさしかかると道の両側に軒が迫ってそこを潜るようにして小さな町を通過。パティ・パンジャンだ。駄菓子屋もあり、そこでチャイを飲んで一息入れる。ネワール族の世界。既に文化的にはヒンズー教が入り込んでいる。オルンは祠にある塗料を手に塗って私の眉間に塗りたくたくる。俄ヒンズー教徒だ。
集落を抜けて背丈程の切り通しを抜けながら進むと再び広い自動車道に出る。しかし、自動車がここまで来られるはずはなく将来に向けての先行投資なのだろう。我々は時々広い道を離れて旧来の山道でショートカットで近道をとる。自動車道と交差しながら広い道を横切っては遠ざかる。峠を越えるとなだらかな道だ。天を仰ぎながら遠くの景色を眺めながらののんびりとした歩行が可能。カトマンドゥ近郊までの車の手配をするためには次の町チソパニで電話しなければならない。
ところがガイドは相変わらずもう一泊する必要があると主張する。しかし、ガイドブックからはどう見てもここからはカトマンドゥに帰れる筈だ。ガイドにはガイド料の返還は求めない、ただし、カトマンドゥでのホテル代は払って欲しいと言う条件で何とか折り合った。ただ、最終決定にはカトマンドゥの責任者の了解が必要なので電話で最終確認をとってからになる。
ほとんど平坦な丘陵地帯を進む。間違いなくチソパニが近いことを感じる。遠くに町並みが見えた。決して大きな町ではないが一歩一歩カトマンドゥに近づいている安堵感が襲ってくる。今日中にカトマンドゥへ下るためにはピッチを上げて下りてきた。多少は足に来ているものの予想外に足は大丈夫なのに本人自信がビックリだ。今回のトレッキングは全行程で大凡一日20km歩いても200km以上はあるだろう。東海道五十三次の時代と同じ体験を異国でしているわけだ。


町中には何軒かのレストランがある。少しはお洒落な雰囲気の店に入る。11時だっただろう。昼には早いし、チャイとビスケットで腹を満たす。ガイドが電話があると言うことで選んだレストランは結局は電話が使えない状態になっていた。電話の使用がマオイストの監視下あるためである。政府に密通されないよう、電話の使用を制限されているとの話し、ケーブルを切断されているとも言っている。いずれにしてもここからはカトマンドゥには連絡方法がない事が分かった。
急ごう。出来れば今日中にカトマンドゥに着いた方が良い。都会生活が目前に迫ってくるとそれを希求する気持ちが抑えきれないほど高まってしまう。清潔なベッド、美味しい食事、冷房の入った部屋、歩かなくて良い状況。ここまで来ると飛んででもカトマンドゥへ、と言う衝動に居ても立っても居られなくなってしまう。
チソパニはなだらかに拡がった丘陵地帯にある集落だ。カトマンドゥ盆地が近いこともあるのだろう春霞のようなよどんだ空気の中、遠くの景色は霞んでいる。ガネシュ・ヒマールの山群も見えるはずだが今日は無理だった。
身の丈以上の切り通しを登っていく。木々も繁茂している。遠くに飛行機の爆音も聞こえてきて、カトマンドゥが近い事を実感させられる。ここまで来ると集落の真っ只中を縫って歩く。子供達が群れている。母親と手を繋いでどこへ向かうのだろう。必死に歩いている。水汲みから帰って来る子供達。以前は軍隊の幕営地だった兵舎の廃墟を左に見ながら一気に下る。下りがだんだんきつくなる。
この一帯はムルカルカだ。ここから先は道が階段状になるので足には負担がかかる。左手に雑貨屋があり、漸く電話が掛けられる所に来た。ガイドは事務所に車の手配を依頼する。さらに集落を下り続けると、こんもりとした森が目の前に迫る。その手前右手にテラスになったところにレストランがあった。都会的な雰囲気だ。カトマンドゥからの学生達だろう。男女が戯れている。さすがに男女が手を繋ぐ姿はないが、男女がグループで楽しそうにはしゃいでいる。東西を問わず同じ風景だ。
ここのメニューは今までの山岳地方とは違って都会風だ。靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ足を久しぶりに空気に晒す。なんと気持ちいいことだろう。足の裏に伝わる冷気が何とも言えない快感だ。長いすに仰向けで横たわる。太陽が眩しい。ああ、無事に帰ってきたいう安堵感に満たされながら昼飯が来るのを待つ。既に15時になっていただろうか。ガイドはさすがに良い店を選んでくれている。美味しい食事に満足。


ここからは森の中を下る。暫くすると小さなダムがある。これはカトマンドゥの水瓶になっている。ダムサイトを対岸に渡ってしばらくするとチェックポストがある。パスポートを提示し水路沿いにある道を下る。一気に下ればそこはスンダリジャルだ。そこから車に乗って市内に行ける。たくさんのタクシーやバスが待機している。我々は手配されてきているマイクロに乗っていよいよ市内に。1時間程でタメルのホテルに着く。18時だった。今晩はガイドの家でパーティーをしてくれるとか。力車に乗って向かう。3階建てのアパート。どんな状況なのか判断できなかったが、ガイドの弟夫婦も住んでいるのか、両家族全員との夕飯となる。ガイド手作りのカレーは美味しかった。

翌日は友人が早々とデリーに向かうので単独でカトマンドゥ郊外を散策。幸いガイドが所属する会社の社長が付き合ってくれた。東に32kmにあるドゥリケル、歴史のあるネワール族の町に向かう。バクタプルの古都を通過しナガルコットへの道と分かれて直進する。ドゥリケルはヒマラヤ眺望がナガルコットと並ぶものと言われているが、残念ながらこの日は靄がかかって山岳の眺望はきかない。外人向けのホテルで昼食をとる。その後、パナウティの村に向かう。しばらくカトマンドゥ方面に戻り、パネパの町を左折して南下する。道はところどころ舗装はされているが、穴だらけ。決して乗り心地は良くない。6kmでパナウティに着く。ネワール族の佇まい。歴史的にも由緒ある寺院(ヒンズー寺院)があり、保存状態が必ずしも良いわけではないが、ホットする瞬間。コーラの対岸にはクリシュナ寺院がある。

日本の田園風景を彷彿させるような景観だ。川では洗濯する者あり、水遊びをする者あり、僧が祈りを上げならら対岸の寺院に向かっていく姿もあった。





カトマンドゥに戻って後は深夜の関空行きの便を待つだけだ。今回はビジネスクラスにしたのでバタバタすることもないのでのんびりと飛行場に向かう。予定通り翌日の昼前に関空に到着。1時間のトランジットで羽田に向かう。ホットした安堵感に虚脱状態になっていた。


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