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①RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー)2005/10/22 [ゴーキョー]

10月23日(日)東京からカトマンドゥへ

23日関空発のロイヤルネパール航空に搭乗するため羽田9時発のJALに乗る。今回のメンバー4人が羽田に集合。4度目のヒマラヤ行きだが、同年代4人とのトレッキングは同世代としての価値感、人生感を共有してきているので楽しみだ。

東京の天気は抜けるような快晴で、8合目まで冠雪した富士山がくっきりと見えた。飛行機は離陸が遅れたこともあり関空には10時半に到着。直ぐに4階の国際線搭乗窓口に向かう。ロイヤルネパールの日本での手続きはANAが請け負っている。チケットがビジネスクラスだったので、さしたる混乱もなく順調に手続きを終えて出国だ。

 12時半定刻に離陸する。ロイヤルネパールはいろいろ話題のあるエアラインだが、今回は全くトラブルもなくスタートした。機内はハイシーズンなのでエコノミーはそれなりに混んでいたが、ビジネスには我々以外には2,3人の日本人だけだった。チケットの手当に苦労した割には意外だった。

瀬戸内海から九州の北部そして五島列島上空を通過、いよいよ日本領海から離れて国外に足を踏み入れる。
この路線は3回目なので見慣れた光景の連続。日本時間2時20分(現地時間3時20分)にトランジットのため上海空港に着陸。上海は関空からはほとんど真西に向かったところ。長江からの土砂で相変わらず土色に変色しているし、空もスモッグのせいか靄っている。これもいつものことだ。ただ、今回の違いはボーディングブリッジに横付けにならずバスでの移動となったことだ。 上海空港のハブ化が進んで、ロイヤルネパールは確実にマイナー扱いに
格下げされたのだろうか。

さらに大きな変化があった。バスで空港内に移動した後、2年前は厳重に隔離されるようにトランジットルーム内に閉じこめられたまま待機させられたが、今回は飛行場内を自由に移動出来るようになっていたことだ。帰国時の土産の下調べなどしたり、のんびりと1時間のトランジットを快適に過ごして3時20分(現地時間4時20分)小雨降る上海空港を離陸して一路カトマンドゥに向かう。6時間近いフライトだ。カトマンドゥに着くのは現地時間で6時過ぎの予定。上海からは厚い雲を下に見ながら時には振動が気になるいつにない不安定なフライトになった。長丁場なので苦手なアルコール、カンパリを口にして睡眠を心がける。長旅ではあるがビジネスクラスなので救われる。熟睡した後仲間達と雑談に花が咲いているうちにカトマンドゥ=トリブバン空港に18時50分若干遅れて無事にランディングする。ぽつんぽつんと灯りが見える。赤茶けた薄暗い灯りだけがついている空港を入国手続きを終えてゲートに向かう。

ガイドのダワさんが待っているはず。待ち合わせている人々のネームカードを掲げて人待ちの人々。ダワさんとは2度目のお付き合い。十分知った中なので彼を見つけて久しぶりの再会を喜び合った。直ぐに彼の手配したタクシーで今晩の宿泊場所である「Fuji Guest House」に向かう。タメルの外れにある日本人贔屓の親父さんが経営している宿だ。

宿に着いて早速明日からの行程の確認と費用の精算を済ませる。すっかり夜になったタメルの街をネパール初めての仲間達を案内する。明日の出発が早いので早々に引き上げて、しばらく縁がなくなる風呂を堪能して就寝。

(今回お世話になるガイドダワさんのHPは下記のURLです。)
http://www.himal-trek.com/


ヒマラヤトッレキング・・②RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月24日(月)カトマンドゥから空路ルクラそしてパクディンへ

5時半には目が覚めてパッキングでバタバタする。カトマンドゥの空は澄みきっていた。乾期と言ってもしばしばスモッグだろうか霞むことがある土地柄。清々しい気持ちだ。未だ寝静まった街を彷徨する。人気がないわけではないが、店は未だ開いていない。外人向けのパン屋だけが香ばしい香りを漂わせながら客を待っていた。7時にはゲストハウスで朝定食をとる。日本人の団体が食堂を使っていたので、さすがに寒かったが中庭での食事となる。

8時には迎えの車が来た。ダワさんのボスでリンジさんが挨拶に来た。彼とはランタン以来、前回のアンナプルナでも会っている。流暢な日本語を操り我々とも会話が弾んだ。今回はテントを張る場面も想定して自炊の為のコックと材料そしてそのためのポ-ターも準備されている。荷物が大がかりになって車の上にも載せて空港に向かう。8時20分には国内線の空港に到着。

搭乗の準備に入るが今までには経験していない程カウンターが混み合っている。今時はトレッキングにとって一番のハイシーズンと言うことだろう。それと後で分かったのはネパールで2番目に大きい祭り・ティハールの直前と云うこともあって現地人の乗客も多いことが分かった。ルクラを始め山岳方面に向かうフライトはしばしば気象条件でディレイしたり欠航があるが、幸い今日は予定通りの運行が期待出来そう。9時には搭乗手続きを終え9時50分のフライトの予定となる。

 ガラス越しにはランタンの山々がくっきりと見えている。予定通り9時50分には離陸。カトマンドゥからはダワさんとパッサン(25才の日本人そっくりのシェルパ族)が同行。他のポーター3人は数日前に陸路でルクラに向かっている。カトマンドゥからジリまでバスで行き、その先は3日間かけて徒歩でルクラ入りするそうだ。テントを運ぶポーター二人はルクラに着いてから採用する事になっている。

 順調なフライトで左手にはヒマラヤの山々が見える。ガネシュマール、ランタンヒマール、そしてクーンブヒマール。素晴らしい景観だ。仲間達は初めての山々に感動の声を上げていた。30分のフライトで10時25分ルクラ(2840m)に着く。いつもながら傾斜地にある滑走路が衝撃的だ。前方の崖に激突するようにして坂道になった滑走路に着陸。ハラハラする瞬間だ。

飛行場には先発の3人のポーターが待機していた。早速ナマステロッジで一休みする。ここは以前にも使ったロッジだ。降り立つとカトマンドゥとは違った澄んで肌を刺すような空気に高山を実感する。天気も最高。進行方向にはヌプラ(5885m)が聳え立っている。

 3年前に来た時はルクラの町に入る際に鉄条網のバリゲートがあって物々しい警戒態勢だったが、その様な気配は全くなく治安体制の変化を実感した。ただ、今でも6時以降の夜間外出は禁止されているそうだ。ロッジで腹ごしらえをして11時半にはいよいよトレッキングの開始。パクディンに向けての一歩だ。紹介が遅くなったがカトマンドゥから陸路で来たポーターはポーター兼料理人のマンバトル(32才)、ウメッシュー(20才)そしてミンミャー(19才)だ。マンバトルは茶目っ気があって楽しい仲間、ウメッシューとミンミャーは日本なら高校生のような雰囲気、子供のように陽気だがシャイな良い仲間達だ。

平坦な道沿いにトレッキング・グッズを売っている店や雑貨屋などが軒を並べているなかを進む。町はずれにはカンニ(仏門塔)がある。

カンニは街を守るための魔除けだそうだ。中を潜ると壁にはマニがあり、天上には曼荼羅の絵が描かれている。そこを通っていよいよルクラの街を後にしてやや下り気味の平坦な道を進む。左手には耕作地があるがすでに収穫が終わっている。ジャガイモ、小麦やそばなどが作られているそうだ。さすがに緯度が低いこともあって日射しは強く、歩き出すと直ぐに汗ばんできたので、全員半袖になる。

12時20分チプリン(2700m)に着く。ここでランチだ。チキンスープにベジタブルカリー付きのダルバートにする。胃はまだまだ元気なので食欲旺盛、全員チャレンジングな食生活を堪能する。ネパール料理の典型はダルバート。ダルは豆、バートはライス。豆スープにライスを絡めて食べるのが現地での食事。現地の人は右手で食べるのが常習だが、さすがに洋風化してきているのでスプーンを使って食べる時もある。13時40分チプリンを後にする。

ドートコシ・コーラを左手に見下ろしながら確実に高度を下げていく。ドートコシはチョオユーの西側チベット国境ナンパ・ラの南面から水を集めて下ってくるボテ・コシがナムチェの手前で合流して大河になっている川だ。10月後半のトレッキングはほどほどの寒さ、乾期で降水、降雪の可能性が少ないベストシーズンなのだ。ソルクーンブには世界中からトレッカーが世界最高峰エベレストを見に集まってきている。静かな山と言うより外人特区が突然現れた感じだ。2時過ぎ相変わらず高度を下げていく。往くトレッカーそして帰るトレッカー行き交っている。

2時15分クスム・カングル(6367M)が雲間からのぞく。タドコシに架かる吊り橋を渡る。ゾキョのキャラバンがその吊り橋を渡っていく。2時20分久しぶりの登りになる。25分バッティー(茶店)で一休み。チャイ(ミルク入り紅茶)を飲む。本来はハーブティーなのだが、作っている現場を見たら実際にはクリィミーを紅茶に入れただけだ。確かにこのエリアでハーブを使うと考えることには無理があった。それを知ってからは体を刺激してくれるレモンティーを注文することが多くなった。レモンティーと言っても瓶入りのレモン汁擬きを添加するだけだが。

2時35分ガートの集落を通る。ここにはリンゴ農園が開墾されている。ネパールのリンゴはどこでも小さなミカン程度の大きさ。日本のリンゴとは比較にはならない。3時10分4年前に来たときには槌音がしていたところに見事なリゾートロッジが建っていた。ヒマラヤ的というよりヨーロッパ的な嗜好のロッジだ。ここはパクディンの集落の手前になる。高級ホテルを意図しているので料金は40ないし50ドルも取るそうだ。そのせいか人影も少ない。

さらに坂道を先に進むといよいよパクディン(2610m)の集落に入る。小さなコーラに橋が架かっているが、その手前からロッジが軒を連ねている。3時20分我々は橋を渡った目の前にあるナマステロッジに泊まる。このロッジは道が二手に分かれた丁度真ん中に位置している。4年前にも泊まった所だ。その時は2月で厳しい寒さの中だったので真っ先にストーブに駆け寄った事が思い出される。雲が重く垂れ込めていて今日も寒々しい感じだが、今日は快適な環境、先ずは部屋に入る。今回は本館ではなく左手先にある別館になった。前回は隙間だらけの部屋で床から立ち上がっている煙突の温もりに手を当てながら寒さを凌いだ事を思い出すが、今回はトイレ付きの立派な部屋だ。

そう言えばルクラで一緒だったパッサンが居ないことに気づく。ダワさんに聞くと我々のテント関連の荷物がフライトの都合で遅くなってしまったそうだ。そのためにパッサンは荷物の到着を待って、2人のポーターと来ることになっているそうだ。テラスルームでチャイを飲んでいたら急ぎ足で登ってきたパッサン達が到着。これでテント生活にも支障がない、万全の体制になった。7時半頃まで食堂で団欒を楽しんで身体も温まったので部屋に戻る。雲が厚く明日の天候が心配だが、雲の切れ間から遠くの灯りが見えてきたので快方に向かう兆しと期待した。9時過ぎまで同僚との雑談が続いたが、明日の6時起床に備えて就寝。


ヒマラヤトッレキング・・③RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月25日(火)  パクディンからナムチェバザールへ

夢の中でか雨の音を聞いた気がしたが、起きてみたら見事な快晴だ。6時に起床7時から朝食。日本にいるときから風邪気味で体調が今ひとつだった。未だ尾を引いているので体調悪化だけは避けなければならない。早速朝ご飯から日本的食事メニューにする。魚肉ソーセージにゆで卵、みそ汁、ご飯にお茶づけ海苔を振りかけて済ませる。ソルトティー(チベタン・ティー)を飲んで出発の準備だ。出発前に買い忘れたトイレットペーパーを買いに近くの店に行く。35ルピーだった。ダワさんによればホテルで買うと50ルピーとか。

7時55分ロッジを出る。対岸稜線上にゴンパがある。その後には岩峰が聳えている。しばらくパクディンの集落が続き道が細くなった登りの左手先にはドートコシが眼下に流れている。吊り橋を8時5分渡るとそこもパクディンの集落の延長だ。右岸川沿いを上流に向かうと25分ザンフテの集落に入る。燦々と降り注ぐ太陽に冬というのに汗だくになってきた。35分我慢できなくなって長袖を脱いで半袖姿になる。左からナンプデテンガコーラが入り込んでいる。小さなコーラに木橋が渡されている。前方タムセルク方面はガスの中だが、少しずつガスも薄くなりそうな気配。8時40分トクトクの集落に入る。この一帯には日本で云う黒松が鬱蒼と茂っている。9時15分前方にタムセルクが見え始める。

エベレストを訪れるトレッカーにとって初めて目に入る雪に覆われた見事な単独峰で印象的だ。最初にヒマラヤを訪れたときここでヒマラヤを実感をした感動を思い出した。しばらくするとベンカールのロッジがある。小屋の主はドイツ人で、シェルパ族の妻と営んでいるとか。



確かに普通のロッジとはひと味違う小じゃれた雰囲気を持っている。ここで一休み。丁度、目の前を数十人の子供を中心としたチベット人がナムチェに向かって移動してきた。現地の人と区別がつかず、ダワさんに言われる迄チベット人とは気がつかなかった。年齢は小学高学年から中学生くらいか。引率する大人がいるが、確かに異様な雰囲気ではあった。子供の中にはバッティーのビスケットに目がいき、買い求めようとしていた。ところが彼らとは店の人も会話が通じない。子供はチベット語しか話せないので店の人は電卓を使って値段を示していた。しかし、子供達にとっては大金だったのだろう、恨めしそうにそこを去っている姿には気の毒な、でもどうしようも出来ない状況に感傷的な気持ちになってしまう。彼らはガイドによればインドを目指すそうだ。チベットからネパール入りは容易いのだが、ネパールからインド入りする時には厳しいチェックがあるとか。ダライラマがインドに亡命しているのでインドを目指すのだろうか。でも彼らにとってこの先には沢山の障害が横たわっているらしい。脱国かもしれないと思うと、彼らのこれからがどんな生涯になるのか想像するだけでもやりきれない気持ちになってしまう。

9時45分ベンカールハウスを出る。ジリを目指すポニーキャラバンと行き違った。ソルクーンブではほとんどがゾキョに依存しているのでポニーは珍しい。10時には左岸に渡る吊り橋を通過。タムセルクのピークは稜線の陰に隠れて見えない。前方にはチョモアの集落が見えている。10時20分そこで一休み。この一帯は多少広い耕作地に恵まれていて葉物や蕎麦、トーモロコシ、イモなどが耕作されているそうだ。葉物はこの冬でも未だ栽培されている。しばらく急な下りを降りるとモンジョ・コーラを横切る。日本の里山にある懐かしい景色に近い。

表で遊んでいる子供達から声をかけられる。ナマステ!と声をかけたら、なんと“こんにちは“と返ってきた。なぜ日本人であることを認識するのか不思議だが、それだけ日本人のトレッカーが来ている証拠だ。歩いていて外人の数に比べて日本人はほとんど出会わないと思っていたが、世界中の白人イコール外人と一括りにしてしまうけど、実際は国別にしたらまちまちなのだろう、そう考えれば日本人が少ないという事はない。しかも、アジア人では圧倒的に日本人が多く、偶に韓国とか香港チャイニーズが来るという感じ。

いつの間にか集落はモンジョ(2840m)の集落に入っている。前回来たときにはここでランチをとった。今回はそのまま国立公園事務所に立ち寄り入山チェックを受ける。手続きはダワさんにお任せ。多くの入場手続きを待っているトレッカーがいるので少々時間が掛かったが11時には終えて出発。

ゲイトを潜っていよいよ国立公園内に入る。ここから一気の下りで再びドートコシに向かう。そして下りきったところで対岸に渡るとジョサレの集落だ。前方にクンビラ(5761m)の山が見えてきた。ナマチェの北方にあるシェルパ族の集落クムジュンの奥にある山だ。
世話になっているガイド・ダワさんはガイドとしての政府による資格認定を受けている。正式にはその資格がないとガイドは出来ないとのことだ。資格取得には3ヶ月間の講習と15,000ルピーの登録料が必要になるそうだ。彼らの生活を考えると決して容易いことではないが、だからこそ資格を持っている事の意味もあるのだろう。ダワさんは証明写真付きの資格証を見せてくれた。

11時25分ジョサレ(2740m)の中央にあるロッジでランチになる。細い街道筋に軒を連ねた旅籠宿のような雰囲気に一寸タイムスリップした気持ち。12時45分ランチを終えて出発。強い日射しに汗だくになった午前中とはうって違って高曇りになって肌寒さを感じてしまう。ここからは見事なタムセルクが眺望できるのだが、今日は無理のようだ。

12時50分対岸に渡る。以前は水面近くにある小さな吊り橋であったが、対岸上部に長い吊り橋に掛け替えられていた。13時半ボテコシとの出合の直ぐ上流にあるドートコシに架かる吊り橋を渡る。ここからがナムチェに向かう最後の急登だ。吊り橋からの景色はとても高度恐怖症の人には耐えられないほどの高度感がある。

そこをゾキョは荷を背負いながら不規則に揺れる橋をたじろぐことなく渡っていく。しばらくゾキョが渡りきるのを待機してからいよいよ我々の順番だ。対岸の尾根を先ずは左に巻きながら急登が始まる。まだ木立のなかの登り、一歩一歩足を運ぶ。13時55分一休み。前回の記憶ではこの登りは大変タフだった。九十九折りの道が続く。精一杯のペースではなく、無理をせず七分目のペースで登ろう。2時15分一寸フラットな空間にチョウタラ(一休みするために積み上げられた石棚=3150m)があり、多くのトレッカーが一息入れている。我々も休憩だ。天気が良ければ木の間からエベレストとローチェが望めるはずだが今日は雲の中。

14時30分出発。パッサンは我々より先にナムチェに向かった。その理由は今日のようにハイシーズンになるとトレッカーが多いためガイドの予定するロッジの手配が出来ない事があるそうだ。なにしろ電話とかメールという通信手段が使えない世界。自分の足だけが頼りなので、一刻も早く着いて部屋を手配するためだった。たしかにダワさんの気配りは行き届いている。普通なら着いてからの段取りでも許されるのだが、我々にベストなロッジを手配しようという配慮が嬉しい。改めて彼のガイドとしての素晴らしさを実感した。

14時50分、直登から稜線に沿って左手をなだらかに上を目指すトレースになる。いよいよ目的地が近いことを感じる。15時過ぎにはネパール軍の検問を通過。

彼らはとてもフレンドリーだ。写真を撮りたいとの依頼に快く応えてくれた。15分ほど先に進むとナムチェバザール(3440m)への入り口をガードしているカンニを通過。いよいよシェルパ族の最大の街だ。ガスがかかって街並みを眺望出来ないが、ストゥーパが浮き上がって見える。しばらく石段を登り詰めると賑やかな店の建ち並ぶ中心地に入る。15時半だった。 登山関連のグッズ、日用品、チベット教に係わる道具、Tシャツや写真などのスーベニールそしてネットカフェ等の店が軒を狭しと並んでいる。石畳の中を先に進む。

15時35分ロッジナムチェに着く。当地一番のロッジとか。レストランと寝室が別の入り口になっている。右手にある入り口から3階迄上り部屋に入って一休み。ここではソーラシャワーが利用出るが、風邪気味なので自重しなければ。これから先ではシャワーを使えない環境になるので入りたいのはやまやまだったが我慢だ。買い物に出たい友人と一緒に街に出る。外人がこんなに居るのかと云うほど別世界を感じる。

18時部屋からレストランに下りて夕食になる。食事が自慢のレストランだとかダワさんの話、これから貧しい食生活に移る前の贅沢をしよう。各自ラムステーキ、チキンステーキ等好みの注文をする。そしてラザニエとマッシュルームスープを頼んだが、相変わらず体調不良のせいか食欲が無く、かなりの量を残しそうになったので、ガイドやポーター達にも手伝ってもらう。7時半には身体も暖まったのでその勢いで睡眠に入ろう。レストランから寝室に移動するときにいったん外を通過するのだが、しとしとと雨が降っていた。明日からの天気が心配だ。   


ヒマラヤトッレキング・・④RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月26日(水) ナムチェで高度順応~~~~~シャンボチェ、クムジュン回遊

雨は上がっているが天候はすぐれない。今日は高度順応のためのレストデイなのでさして気にはならないが長引かないことを祈る。6時に起床、7時に朝食、モーニングセットを頼む。トーストにポテイト、目玉焼きそしてオレンジジュースにコーヒー。山の中とは思えないメニューだが、ヒマラヤに入ってパンが口にはいるとは想像外だ。以前来た時にはパンは探してようやく見つかる貴重品だった。まだ数年しか経っていないのに西欧化のテンポが速いのを実感。

8時15分トレッキングの準備完了だ。ロッジの美味しいツナサンドをランチに用意して貰う。今日は近場を回遊するだけなので荷物はカメラと飲み物程度。全員軽装で出掛ける。一気な急峻な上りになる。息をあらくしながらの上り。縦横にあるヤクの獣道から選びながらガスのかかるなか上に浮かぶタルチョーを目指す。眼下にはネパール軍の駐屯地とそこで警護する兵隊そしてナムチェバザールの集落がパノラマのように見える。天気が良ければエベレストが望めるのだが今日は全く絶望的だ。下から見えたタルチョーが岩の上に翩翻と風を受けてはためいているところに着く。50分だった。徐々に傾斜が緩くなり、なだらかな尾根状になっている。ひたすら上を目指す。我々を追い越して小学生や中学生だろう同じ制服を着て、いとも軽々と登っていく。彼らはクムジュンにある10時始業の学校に向かっているそうだ。毎日、天気が良かろうが悪かろうがこの山岳路を通う。ガイド達はみんなそんな生活で鍛えられるのだから強いわけだ。彼らの通うクムジュンの学校はヒラリーの寄付金で運営されている。9時10分フラットなチョータラのあるところで休憩。ここは3700mだ。富士山山頂の高度にもう一寸。

シャンボチェのエリアにすでに入った。左手の草原地帯には舗装されてない滑走路がある。トレッカーがヘリをチャーターしてダイレクトに入る飛行場だ。前方にはホテル・パノラマが建っている。一泊100ドルとか。かなり高いホテルだ。9時40分、標高3800m富士山の山頂をいよいよ越えた。ホテルの右手を迂回しながら先に進む。9時55分草地にはヤクが草を食んでいる。右手前方にはアマ・ダブラムがあの独特な美しい姿を雲の上に突きだしていた。

10時10分ホテル・エベレストビュー(3880M)に着く。まるでゴルフ場のゲストハウスに向かう景観に笑ってしまう。こんな山地によくぞここまで造ったものだ。ここの自然な環境とマッチしているのだろうか疑問を感じた。宿泊料も一番高いとか。確かに各寝室からエベレストを窓越しに眺望できるのは良いことかもしれないが・・・。なにもかも高い。紅茶がポットで700ルピーとか。テラスに出てエベレスト方面に目をやる。残念ながら雲が切れず時々切れ目からエベレスト、ローチェが一瞬だけ覘くが写真を撮る状況にはならない。白人のトレッカーが溢れている。山に詳しくない人も多いのか、さかんにエベレストは見えるのか、どれだ、と質問される。ここでは観光気分が横溢している。

10時55分ホテルを出てクムジュンに向かう。雲が重く垂れ込めている。ホテルを背に右手に向かう。唐松と石楠花が鬱蒼と茂る道の先にはクムジュンの集落がある。足下には落ち葉が絨毯のように敷き詰められている。まるで日本の山行を思い出す。平坦な道を20分ほど歩くと黒土の畑で土を耕している農家の人たちに出会う。家族総出で農作業だ。近代化する以前の日本の農業にそっくり。石混じりの土地、砂状で耕作には恵まれない農耕が平均的なのだが、この地は恵まれた土壌になっている。

クムジュンはシェルパ族の大集落だ。一軒しかない食堂でランチをとる。朝作ってもらったサンドイッチを取りだし、スープを注文して済ませる。腹を満たしてうねる細い道を辿りながら正面に見えるゴンパに立ち寄る。それほど大きなゴンパではないが、この寺の売りは「イエティーの頭」が有ることだ。イエティーはネパールの神話上の存在と聞いているが、その神話上の獣の頭部が陳列されているとか。真偽のほどを追求する野暮は止めてドネーションを払って1時、ゴンパを出る。

食堂のあった元の広場に戻り、正面にある学校を経由してナムチェに向かう。この学校はナムチェからの生徒も来る教育施設。ヒラリーの寄付で維持されている学校だ。小学校から高校までの施設がある。ハイスクール生だろうかサッカーボールを蹴り合って遊んでいた。広場を抜けると石畳の登り道がある。左手に向けて矢印があったが、そちらはヤク・ルートだそうだ。マスクディア(じゃこう鹿)の保護のためと看板には書いてあったが。

ここでも石楠花が繁茂している。きっと春先には素晴らしい花を咲かせることだろう。霧に覆われて幻想的だ。3800mでの登りは息が上がる。手の込んだのや手作りのチョルテンが立ち並ぶ3850Mの峠にさしかかった。1時35分。二匹のヤクを連れたチベタンとすれ違う。チベタンだとダワさんに言われないと分からないほどシェルパ族にそっくりだ。彼らはチベットからヤクを売りにクムジュンに来ているそうだ。長い危険な旅で得たお金で何かを買ってチベットに戻るのだろう。

ここで初めてゾキョが牛の雌とヤクの雄を掛け合わせた一代種であることを知る。1時50分シャンボジェの村を通る。そこにはネパール軍が駐屯している。非番の兵隊だろうか散策をしていた。さらに下り2時10分には眼下前方にナムチェの街が目に入った。2時20分ナムチェの上にあるゴンパを通過。2時半、ホテルに戻る。今日の課題であった高度順応を無事終える。

取り敢えず各自それぞれの部屋で休んだり、ソーラシャワーを使ったりして休養。4時過ぎにナムチェの街に出て追加の買い物をする。フェイスタオルが50ルピー、小さなリンゴが30ルピーだった。霧雨が降りとても肌寒い。そう言えばルクラで雇用したポーターとはほとんど顔を会わすこともないのだが、彼らには日当700ルピーが支払われ、いわゆる“運び屋”で我々と一緒に行動する持つポーターとは扱いが違う。彼らは自分で宿から食事まで賄うそうだ。そんなことで我々の身近には居ない。次の目的に着くと我々の荷物があるという関係でしかない。

街から帰ると寒いので直ぐに食堂に入る。そこには逗留するトレッカーが既に団欒をしていた。分厚い本を読んでいる人、トランプに興じる人たち、会話を楽しむ人たちそれぞれだ。我々も話しに花が咲く。同年齢の集団なので話に共通点があって楽しい時間が経過する。美味しい食事は今日限り、ナムチェスープ、イタリアンボロネーズ、ステーキなどを注文する。明日の天気が気になるが、あっという間に熟睡していた。


ヒマラヤトッレキング・・⑤RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月27日(木) ナムチェバザールからターメ

5時50分起床。窓を開けて外を見たが、見えるはずの山々が一面に立ち込めた霧で何も見えない。出発の出鼻を挫かれたトレッキングになるのかとブルーな気持ちになった。慌ただしくパッキングをしていると、ダワさんが食事の連絡に来た。「外を見てください」と言われて改めて窓に近づくと、さっきとうって変わってガスが上がり、前方にあるカンデの山々が聳え立っていた。ホットした。 朝食を終えて8時前にはロッジの前に集合する。既に多くのトレッカーが慌ただしく動き、朝方とは違った賑やかなナムチェに戻っていた。一旦ガスが切れたのに再びガスがかかってきた。今日はどんな天気になるのだろう。心配だ。ガイド達はこのことには全く歯牙にかけない。直ぐに良くなるよ、って一言だ。信じよう。

町を通り抜けゴンパの下を通りくぐり一気に上る。8時10分にはナムチェ・バザールを眼下に見渡せる町はずれだ。街は見えるが山々は見えない。一気の上りで汗が出てきた。直ぐに長袖から半袖に着替える。幸いガスが切れ始め時々カンデの山々のピークが望まれる。人里を離れてヒマラヤ杉とツツジなどの低木に囲まれた街道を前進する。8時半頃にはガスも上がり、進行方向左手にはルムディン・ヒマールの山々が聳え立っている。 8時45分シャンボジェへの道が右手に合流する。街道は平坦な楽しい道だ。数百メートルの眼下にはボテコシの流れが見える。道が広いのでさほど恐怖感はないが、さすがに迫力だ。

9時にはフルテェ(3390m)の集落に着く。ここにはチョルテンがある。9時5分まで小休止。後ろを振り返るとタムセルクが雲間からのぞく。フルテェにはヒラリーの寄付で営まれている森林保護のためのプロジェクトが街道の左手で営まれている。 9時15分マタポテェの集落を通過。段々畑が美しく耕されている。20分にはチョルテンのある峠で一休み。すっかり日射しも強く降り注ぎ天候の不安は消し飛んだ。右手を見上げると猛々しい岩肌を露出したクンビラが見える。タモの集落はもう直ぐだ。気がつくと森林限界を超えたのか高木(こうぼく)は姿を消し、低草木の世界に移っている。35分にタモ(3440m)の集落の外れに入る。それほどの大きな集落ではなかった。長閑なフラットな地形だ。左手にあるロッジに入る。2才か3才の子供がなんと歩行器を使って歩く練習をしていた。こんな田舎、を考えると都会との交流が日常的にされている家族であることが分かる。話を聞くと、ここのご主人はアマ・ダブラムの登頂をサポートしたガイドである証明書を持ち、6000m以上の高山をガイドする本格的なスキルを持ったガイドである事が分かる。当然今時はどこかでガイドをしているのだろう、彼は不在で奥さんがロッジを取り仕切っていた。お茶を飲んで10時05分出発。

タモには水力発電会社の本社がある。ここでの電力がナムチェ・バザールへ供給されている。街道左手のボテコシの水を利用している。もとはここに発電所があったのだが、1985年の洪水で上流へ移設されている。10時45分タモの町はずれにあるレストラン・カワンデビュー・エベレストで昼飯だ。街道から少し離れた小高い傾斜地にある。雪に覆われたカワンデ(6186m)が望めるレストランだが、今日は残念ながら雲がかかって視界に入らない。複数の白人グループが既にランチをとっていた。雲間から強烈な日射しが差すと汗ばむほどなのに、一旦雲に覆われると肌寒い。服装の対応が難しい。その上風が強く、最初に陣取ったテーブルが風の通り道にあったので風が遮られている下に下りる羽目になる。

11時45分出発。12時、対岸にタムテの集落が見える。15分渓谷は荒々しく、あちこちにランドスライドの傷跡が見られる。久しぶりにヤクのキャラバンとすれ違う。チベットからの一団だ。この街道を北上するとチョオユーの左手にあるナンパ・ラの峠(5716m)だ。その峠を越えるとチベットだから、多くのチベット人が商談のためこのルートを使って入国してくる。

12時20分タムテの町に入る。チョウタラで小休止。休んでいる前をターメの方から足早に下って来た20代そこそこの女性と青年(姉弟)が通りかかった。ナムチェ・バザールは遠いか、との質問に答えてその序でにどこから来たのかと尋ねると、ビックリすることにゴーキョからマルルングを経て下山という。なんとタフな連中だろう。しばらく遅れて父親だろうか、後を追って下山してきた。彼らはチェコから来た人たち。ソムデ(3580m)の集落を過ぎしばらくランドスライドの傷跡を眺めて先を進むと、ボテコシの対岸に渡る為の急坂があり、渡った先でも再び稜線に向かって九十九折りの上り道が見えている。

12時50分天気は重く雲がたれ込め、荒漠とした風景だ。一気に下ると狭く巨岩の合間を縫って踊るように水が流れている。手前の右手に大きな岩を均したところに見事な壁画が描かれている。鮮やかな色合いからして最近書き換えたのか、あるいは復元したのだろう。見事な壁画に圧倒される。チベット教のメッカ、ヒマラヤでも珍しい風景だ。前方の九十九折りの坂道を十頭弱のヤクが整然と下りてきた。チベットからのキャラバンだろう。尾根の左手裏側から回って流れ込んでいる川はターメコーラだ。13時10分チョウタラで小休止。一瞬だが、タムセルクのピークが覘いた。この一帯は上高地から徳沢に向かうような穏やかで苔むした桃源郷のように美しい。水が溢れて至るところで滝になったりせせらぎを作ったりしている。湿原のような雰囲気だ。

ここまで来るとターメは遠くない。13時35分ターメ(3750M)にあるロッジ・バレ-ビュー・ロルアリング・リゾートに着く。定住住民が住む最奥の集落だ。ここで北に道をとるとチベットだし、そのまま直進するとタシ・ラプチェ・ラ(5755m)越えのトレッキングコースがある。なかなかタフなルートだそうだ。その先はジリに向かうルートに合流する。我々はチベットに向かい、途中から右手に折れてレンジョ・ラを目指す。

荷物を部屋に置き、食堂で各自それぞれの思いで時間を過ごす。ここにはTVとビデオがあり、宿の子供達が一生懸命にボタンを操作している。なかなか写らない。外を見るとパラボラアンテナがあって衛星放送が受信できるようになっていた。時々気まぐれに写ったり消えたりしているうちに上手く繋がったようだ。何チャンネルかのTVが見えた。ただ、ネパール語なので意味は不明だが。

今晩は我々だけの宿かと思っていたら、4時頃だろうか50代の日本人が飛び込んできた。いかにも山男という出で立ち、彼は富山県山岳連盟の役員でネパールでガイドをしている。彼はなんとゴーキョからの下山だと言っていた。タフな50代だ。彼はやはり年取ったシェルパ族のガイドを連れていた。ずっと連れ添っている関係だそうだ。以心伝心なのだろう。そして彼らは詳細は不明だが、タシ・ラプチェ・ラ(5755m)でテントを張っている日本人仲間に合流するために急いでいたようだ。彼からネパールでの生活経験をいろいろ聞く。彼に言わせれば日本でも都会人が田舎に移ると想定外のフリクションを経験するが、それと同様なことが起きるそうだ。そんなことで決して心を許しあって付き合うと云うより、ある程度の距離を置いて付き合わざるを得ないと云っていた。そうなのかもしれない。客人でいる日本人は所詮客だから商売の対象だけど、ネパールにいたらライバルになってしまう。

今晩は焼きうどん、モモ、ゆで卵。マヨネーズ、ソイソースを味付けに使うと味が一層美味しくなる。餅を焼いてもらい磯辺にして食べたが、最高に美味しい、日本を思い起こすことになった。
ルクラで雇用したポーターはタマン族とライ族の青年だが、彼らは我々とほとんど接することもなくただただ運び屋をしている。ルクラには季節になると麓から仕事(ポーターとして)探しに常時200人ぐらいが居るそうだ。給与もカトマンドゥからのポーターとは違ってかなり安いようだ。といってもルクラはネパールのなかではポーターの料金が一番高いエリア。ガイドもルクラで調達できるが、その場合は多少の会話が出来るだけで資格も持ってない、地理には明るいだけのガイドになってしまうことがあるらしい。その点、確かにダワさんは歴史のこと、民族のこと、動植物のこと、当然山のことは的確に応えてくれる。

ここに来て分かったことは事前情報ではマルルンクで一泊、レンジョ・ポカリでテントを張りレンジョ・ラ越えをすることになっていたが、現在はマルルンクの先にあるランデンにロッジが出来て、レンジョ
・ポカリでのテント張りが必要無くなったことが分かる。昨今このルートが徐々に人気を博してきた結果なのだろう。
この日は全員体調も良く、久しぶりの日本人との出逢いに話が弾みついつい寝るのが8時半になってしまった。その日本人の話では今年のヒマラヤの天候が例年になく不安定だとか。確かにナムチェでもここに来るまでもすっきり晴れ渡る気配はなかった。ここでも地球レベルでの異常気象の影響があるのかもしれない。


ヒマラヤトッレキング・・⑥RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月28日(金)ターメからランデンへ

いつものように6時前に目が覚める。外に出たが高曇りで今日も快晴は絶望かと思っていたが、徐々に雲も切れて時々雲間からタムセルクのピークが見え隠れしていたが、7時の食事時にはタムセルクがすっきり見えてきた。今朝はチベタンティーを所望した。塩とヤクのバターがほどよくミックスされた美味しい紅茶だ。それにフレンチトースト、ゆで卵と日本から持ってきたポタージュのメニュー。チベタンティーは一寸こってりだが栄養があるし、塩味がさっぱり感を与えてくれる。1メートルぐらいの筒に材料を入れて棒で中身を突きながら攪拌して作られる。この道具がなんと高価だそうだ。ほとんどがチベットからの輸入品とか。 7時50分食事を終えていよいよ出発。絹雲が高曇りの下を走る。ただ、ラムディン・ヒマール方面の山々は稜線を覗かせていた。同宿した日本人が向かうタシ・ラプチェ・ラ(5755m)方面は相対的に視界良好。ロッジの前で全員の無事を祈りながらの記念撮影。その頃には日差しも差してきた。

ロッジからは右手小高いところにあるゴンパを目指してそこを左手にまず直登、そしてトラバースするように右手に向かう。しばらく行くとボテコシの流れが右手に見えてきた。すぐに身体が温まり汗だくだ。河原に向かって下りる。丁度ヤクのキャラバンと行き違う。河原に下りてからは広がりのあるなだらかな上りを一歩一歩進む。時々草の塊が秋の余韻を残して赤茶けている、全体的には殺伐とした荒涼たる世界だ。8時10分再び小さな集落に近づく。スチューパもある。ここもターメの集落だ。進行方向正面には真っ白なドーム状の山が際だっていた。そこは既にチベット。もう少し足を進めるとチベットの世界だと聞くと、いよいよネパールの辺境に来た実感がわいてくる。改めてエキゾチックな気分に浸ってしまう。

突然後方からドドゥっと重々しくも激しい音がしたので振り返ると、チベット人なのかこの地方の人なのかヤクを操って走って近づいて来るのが視界に入った。ヤクがおっとり歩く姿しか見ていなかったのでその迫力には圧倒された。映画「キャラバン」で砂埃を上げて走るヤクのキャラバンのシーンが思いだされた。

集落に入る。このあたりはカルカ(牧草地)の囲いが無数にある。そしてヤクがあちこちに放牧されていた。この乾期には生き生きとした草木はなく、枯れ草というか根っ子だろうかヤクは食むでいる。ほとんど平坦な道を前進。うす紫色のリンドウが群生して咲いていた。といっても生気があるというよりドライフラワーのようでこの寒さの中で寂しげだった。

8時40分ボテコシを対岸に渡る。トレイルはほとんど水面近くにあるので木橋だ。対岸は抉られた崖状になっていてそこを上ったところにルートがある。ところが渡りきったところで上の方から人の声がして、なにやら叫んでいた。ダワさんとのやり取りがしばらく続く。結局道とその先の橋が洪水で流されて崩壊しているが伝えられる。やむを得ず元に戻って直進をする。

ボテコシ沿いに右岸を上流に向かう。多少の上り下りはあるがほんの少しずつ高度を稼ぐ程度だ。9時5分チョウタラで小休止。標高は3810m。10分には出発。右手にはタムセルクがシルエットになって、進行方向左手にはずーっと見えていた真っ白い雪を被ったドーム状のチベットの山が見える。さすがにここまで来ると息が上がるので頻繁に休みを取る。渓谷も両側から山が迫ってきた。20頭近いヤクのキャラバンがチベットを目指して後を登ってくる。確かナムチェのバザーは確か今日と明日の筈だが早い帰国は何故か、とダワさんに確かめると、きっと早く商談を終えたのではとのことだった。幸運な人たちだ。その姿をカメラに納めようとレンズを向けると素振りなので正確ではないが、どうも被写体になるならお礼を欲しい、と言う雰囲気だった。チベット人の姿も入れて撮るつもりだったがトラブルを避けるためにレンズはヤクだけに向けて、早々とヤクの群れから離れる。

対岸には聞いたとおり、道が崩れ橋桁だけが残った残骸が見えた。8時50分左手から流れ込むコーラに架かる吊り橋を渡る。9時50分ボテコシはますます山が迫りV字状の谷を形成している。急登があるとしばらくは平坦な道、それの繰り返しだ。10時過ぎになると急に渓谷は広がりを作り、あちこちにカルカの囲いが現れる。雨期にはきっと牧草が一面に生えそろい、沢山のヤクが草を食むでいるのだろう。今では対岸にあるカルカに数頭放牧されているのが見えるだけだ。

10時20分タルンガに着く。といっても一軒だけある掘っ立て小屋のバッティだ。街道沿いにはカルカがあり、夏場には番屋として使われる小屋が所々にあるが人っ気がない。ここのバッティーは大した食事は出来ないそうだ。結局、インド製のニッシンラーメン(ヌードル)とビスケット、チャイで昼飯代わりだ。どうしたのかやけに腹が減った。追加注文でラーメンをもう一杯頼む。日清ラーメンはヒマラヤでは極めてポピュラーだ。インド製ではあるが日本の味と一緒。ヌードルスープとしてどこのバッティーでもメインのメニューになっている。ここは4000m。10時40分出発する。引き続き石ころだらけの道を進む。石積みに囲まれたカルカが続くが人気もなく、ヤクもいないのでまるで廃村のような雰囲気だ。曇った空そして冬という季節のせいが一層荒涼さが強調されている。

足元を見ながら歩いていたら一匹だけ蟻が歩いている。こんな寒い地域で何故だろう。冬眠しそこなったのだろうか不思議でならない。12時過ぎ再びボテコシは狭くなり、トレイルはその崖を水平に移動する。そして再び広がりを持ったエリアに出た。ここがマルルンクの集落だ。ここは定住地というより定住村の出先として夏場を中心に生活の場になるエリアだ。人っ気もなくロッジらしき家もない。当初の予定ではここで泊まるはずであった。泊まるとしたらどこなのだろう、と思うほどだ。ヒマラヤでは情報は糸電話の世界。メジャーな地域ならいざ知らず、一寸外れになると人伝えでしか情報が伝播しない。必ずしも正確な情報とは限らない、それを実感した。ここに限らないことだが・・・・・。
12時20分レンジョパス・サポート・ロッジ(4350m)の看板のある前を通過。12時40分ボテコシに架かる木橋を渡って左岸を上流に向かう。一気に崖を登ると道が二手に分かれている。真っ直ぐはチベットに向かうナンパラ峠へ、そして右にとると我々の目指すレンジョ・ラだ。今晩泊まるランデンはその途中になる。

さっきから強風が吹いてきた。その上天気も曇っているので肌寒い。石がゴロゴロとしたガレ場を右手に振りながら登る。ボテコシがだんだん眼下に移る。そしてチベット街道はボテコシに沿って続くので、だんだん我々からは遠離っていく。レンジョ・ラ方面は雲に覆われているが、チベット方面の山は視界に入り、後方の山も雲間からのぞく。カルカは引き続きあちこちにある。1時40分漸くランデンのロッジに着く。ここは4400Mの高度だ。さすがに息も上がり、高度による寒さ、そして曇天なので肌寒さが身にしみる。直ぐにダウンを取り出し身体を温める。

先ほどマルルンク近くで看板を見たレンジョパス・サポート・ロッジがじつはここだった。やはりマルルンクにはロッジはなく、現在ではランデンにあるこのロッジが唯一のロッジであることが確認できた。こんな奥地なのにこのロッジは瓦屋根で窓は二重窓、その上トイレ付きの寝室になっていた。2年前に建てられたそうだ。

5時まで部屋で休憩。そして食事だ。ここまで来たら胃の具合が再び下降気味。高度障害か胃の疲れか、全員体調不良。夕ご飯はダワさん達の気配りで作られたみそ汁と果物のデザート、他にレトルトのお粥、さんまの蒲焼き、ミートソースを4人でシェア。それも漸くの思いでこなした感じだ。体調不良も高山に来た証。下界ではタフを誇る面々も下痢気味で食欲不振になってしまった。自分も昼のラーメン二人前が堪えたのか不覚にも一気に体調を崩してしまった。これからの最大の難関を前にして先が心配だ。窓からは数え切れない星の輝きが部屋を差す、知識がないこともあるが星座の識別が出来ないほどだ。明日の天気を約束してくれているならいいのだが。


ヒマラヤトッレキング・・⑦RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月29日(土) ランデンからゴーキョへ

今日は長丁場のトレッキングと5340Mの高度越えという一番の難関の日だ。ヒマラヤの地勢からしてやむを得ないのだが、どのルートをとっても一番高いところを挑戦する日がアップダウンが大きく厳しいことだ。それに備えて4時にたたき起こされた。先ずはヘッドライトを頭に回しパッキングの準備だ。暗い中だからなかなか捗らないが、手探りをしながらしっかりパッキングしなければならない。
外に目を向けると満天の星だ。こんなに星の数があるのかと言うほど一面に輝いている。星雲が見られるし、当然天の川も。都会ならひときわ明るい星を辿るだけで星座を識別できるのだが、ここではあまりに多くの星が有りすぎて難しい。昨日登ってきたトレイルを振り返ると両側の山が迫りV字谷の向こうには白み始めた空を背景に山が浮き立っていた。しばらくするとポーターのパッサンがお湯を用意して洗面器を持ってきてくれた。ストーブにかかっていたヤカンのお湯に水を入れてくれたのだ。さすがにとても当地では水だけでは顔を洗う気になれない。お湯で顔を洗ってさっぱりする。

昨晩は激しい下痢に悩まされた。この症状は自分だけではなく、全員が体調不良になっていた。トイレに何回行ったかのかが朝の挨拶代わり。幸い高山病の気配ではないのでホットしたが。今回初めての面々は睡眠誘導剤アモバンのお世話になって寝たそうだ。そして高山病予防のためにダイアナモックスを飲んでもらった。 今朝は体調が悪いので胃の負担を軽くしようと思うまでもなく、食べようにも食べられないので食事はコックの作ってれてたみそ汁にお粥だけで済ます。

早い出発を予定したが、結局は6時10分になってしまった。多少は明るくなったとはいえ未だ寒い。指先が痛くなるほどだ。幸い風がないので体感温度はさほど下がっていないのだが・・・。周りはカルカ(牧場)になっていて幾つにも分かれた囲いの間を縫って先を急ぐ。 後ろを振り返ると真っ白の山、ヌンブル(6959M)が美しく目に入った。道に迷うことがないと云うことで準備が出来た者から先に進むよう指示があったので三々五々の移動になる。6時45分、後発になった仲間達と合流するために待機する。 太陽はまだ稜線の向こうなので薄暗い状態。カルカは未だ続く。チベットに続くボテコシは遙か彼方の下を流れている。さすがに4500mを越えた登りでは息が上がる。7時15分4600M地点を通過。左手に石を積んだだけの番屋がある。よく見るとこの小屋は集落へ水供給のために水源から誘導する基地になっているそうだ。ようやくその頃には身体が暖まって指先の痛みが気にならなくなっていた。山のピークに朝日が射して白い雪が赤みを帯びて美しい。

7時20分小休止。平坦な登りから尾根状の登りに変化する。レンジョ・ポカリまで尾根の上を登っていくことになる。まだ、ボテコシの流れとチベット街道の道が見えているが、これから先は一気に右のピークに向けた登りなのでボテコシともそろそろお別れだ。この先もさほど急峻ではないが、酸素の少ない高度ではタフな行程だ。早朝に比べれば多少風が出てきて身体から体温を奪っていく。4630mまで登ってきた。 7時35分平坦なところを喘ぎ喘ぎ登る。稜線から朝日が昇り少しずつ暖かさの恵みを与えてくれる。太陽に感謝。

7時45分、左手に水が涸れて小さくなったポカリと雨期になればポカリになると思われるフラットな窪みがある。こんな高山にも数頭のヤクが居たのにはビックリ。8時15分眼下にポカリを見ながら稜線上を歩く。所々に今年の新雪が残っている。4760M地点を通過。しばらく稜線の陰に隠れていた太陽が再び差し込んで来た。8時半再び稜線からフラットな形状の所に出る。再び涸れかけたポカリが右に見える。4800M地点を通過。下を振り返ると水が涸れかけた小さな池が見えたが、地図を取りだして確認して分かったことはこれぞレンジョ・ポカリだった。ガイドブックにはレンジョ・ポカリがポイントとして記載されていたので、もう少し大きなポカリを想像していた。 8時40分、レンジョ・ポカリよりもはるかに大きいレラマ・ショの湖畔に着く。広々とした空間はまるでクレーターの中にいるようだ。

前方はまるで千畳敷か唐沢の屏風状の山が聳立つ姿に似ている。ここで大休止。移動中には強風に曝されて寒いこともあったが、ここではすっかり風もおさまり、音の全くない完全な静寂の世界になっている。8時55分出発。

9時10分には前方聳立つ岩峰のいくつかあるピークとピークの間にタルチョーがはためいているのが辛うじて目に入る。これが今日の最大の難関、レンジョ・ラ(=パス、5340M)だ。9時30分から10分間アングラヅンバ・ショを見ながら休憩。この湖もレンジョ・ポカリより遙かに多くの水を湛えている。9時55分、4900M地点で休憩。右手の聳立つ山は真っ白な雪を被っている。10時10分小休止。4940M。 10時20分出発。ここまで来ると酸素が平地の半分だから歩くにも長続きしない。一寸歩いては休憩の連続。沢に向かって下りた後、流れが凍った足場を歩き、時には表面が氷で覆われた岩を手づかみで登ったり、足元が滑り身体を安定させるのに四苦八苦しながらの歩行が続く。雪が岩肌を覆っているので、ただでさえ酸素不足で身体の自由が利かないなかだから大変だ。再びさっきの湖が見える。

11時40分直登からトラバースになる。レンジョ・ラ(パス)にはためくタルチョーが手の届きそうな所まで来たが、それがなかなか先に進んだ実感にならない。5150M地点の鞍部で風を避けながら昼食だ。正直言って食欲は全くない。ダワさん達が作ってくれたサンドイッチを手渡されるがボソボソなので喉を通らない。テルモスの辛うじて温かさが残っているお湯を啜りながら少しは喉を通したが無理だ。2枚だけビスケットを無理矢理口にこじ入れて多少の栄養を補給。一寸休んでいるだけで体の芯が冷えてくる。 12時15分峠を目指し出発。本当に近くに見えるのにあと1時間ぐらいはかかるだろうとダワさんは言っている。手が届きそうなのに「本当?」と聞き返したくなる。エベレストや6000m以上の山をアタックした人たちの手記には一歩一歩の重さが書かれているが、その比ではないかもしれないが、それを実感している気分だ。喘ぎ喘ぎ九十九折りの最後の急登を残された体力を振り絞って意地になって登る。本当に数歩行っては休み、数歩行っては休みだ。呼吸も大きく3回吸って2回吐くをしっかり意識してしないと辛くなる、それでも足は息苦しくて鉛のようになってしまう。

あと一瞬でレンジョ・パス。最後の重い一歩を岩にかけた瞬間、今まで目の前を遮っていた岩肌が無くなり、無限に拡がっていくと錯覚されるほどの空間が拡がった。レンジョ・パスの先はゴーキョに向けて直下する谷、その先には待ちに待ったエベレストの勇姿が雲一つ無く浮き上がり、ヌプチェを従えその奥にはローチェが、その右手にはマカルーが、さらにずっと右に目を振るとチョラ・チェやタウ・チェが、またエベレストから左手にはカッチュン、ガチュンカン、そしてチョオユーと言う壮大なパノラマが拡がっている。
疲れを忘れてはしゃいでしまうほどだ。眼下にはカール状に雪に覆われた谷がドート・ポカリに向けて落ち込んでいる。その湖の先には砂に覆われたンゴズンパ氷河がチョオユーに源を発し横たわっている。この世の景色とは思えない素晴らしい景色だ。幸運にも午後を回った1時というのになんと澄み切っていることだろう。重い荷物になる事を覚悟で持ってきたカメラを出して撮りまくる。仲間達との記念撮影も。パスを現地語ではラと読んでいる、峠を意味する。当然風の通り道だから強風が通り抜ける。頭の上ではタルチョーが千切れんばかりに音を立ててはためいている。幸運を祈るタルチョーに乾杯。

いつまでもここにいたい気持ちだが先を急がなければならない。1時25分出発。ここからの下りはガレ場で雪が凍った場所もあり、滑落しないように一歩一歩足元を確かめて下山する。下山は登りよりも危険が伴う。そして経験の差が出るところだ。低酸素、寒さ、疲れと全ての条件が悪い。低温障害か体調の悪い仲間が出てガイド、ポーターが前後左右を支えながらゆっくりとしたペースで進む。頭痛とか吐き気などの症状がないので重度の高山病ではないらしいが、明らかに高度障害が出たようだ。
レンジョ・パスを越えてからは日陰になるのと吹き始めた風で体温が奪われるので一層寒さを感じるが、天気は幸い夕方まで持ちそうだ。身を引き締めて一歩一歩下りよう。九十九折りのルートを確実に高度を下げて行く。 1時45分急峻な下りが終わりフラットな台地に着く。ここには小さなポカリがある。チョオユーとそれに繋がる山は視界から消えたが、まだ、レンジョ・パスでの眺望がそのままだ。見残しのないようもう一度しっかりと目に焼き付ける。そして改めてここでもエベレストを背景に記念撮影だ。全員の目には達成感と安堵感がうかがえた。

岩場のなか急な下りの後に台地が現れる、それを繰り返えすが、手が届きそうなゴーキョは見えてもなかなか近づかない。陽が稜線の向こうに落ち始めると温度が急速に下がってくる。寒い。稜線のカゲになったドート・ポカリがコバルトブルーから黒みがかった青に変わり、不気味ささえ帯びてきた。左手前方には明日登頂する予定のゴーキョ・ピークが見える。エベレスト、ローチェも視界から徐々に消えてたが、ゴーキョとカラ・パタールの間にあるチョラ・チェやタウ・チェが見事な姿になって近づいてくる。右手にはレンジョ・パスから派生した尾根がゴーキョに向かって延びている。山肌は最近積もったのだろう純白な雪だ。 気がついてみればトレイルの周辺から雪はすっかり消えていた。トレイルは少しずつ傾斜をゆるめ、ゴーキョ・ピークのなだらかな斜面を横切るようにして下る。右手にはドート・ポカリが右手眼下に広がってきた。遠くにトレッカーの姿が見える。ゴーキョ・ピークから下山してきているトレッカーだ。今日初めて目にした我々以外のトレッカーだ。今回のトレッキングコースはゴールデン・シーズンでもトレッカーで賑わうことはない。エベレストエリアにしては人の気配のない素晴らしいトレッキング・ルートだった。

ゴーキョピークの裾野までようやく下りてきた。既に5時だ。辛うじて残照で明るさを保っている状態。足元も薄暗くなっている。ドート・ポカリに流れ込んでいるコーラを石伝いに渡りゴーキョのロッジに着く。ドートポカリに面したロッジが今晩の宿だ。チョオユービューロッジと書いてある。左手にはロッジの名前の通り雪煙の上がっているチョオユーが望めた。我々の先を急いで先発したポーターが既に手配してくれていた部屋に入る。部屋は既に真っ暗だ。体調の悪かった仲間は先ずは安静と云うことで部屋で横になる。

他人事ではない。自分も体調は最悪。食欲は全くない。私だけではなく、全員が同様な状態だ。高度障害と限界を超えた疲労感そして最大の難関であり今回の全ての目標であったレンジョ・パスを越えられたことでどっと疲れが出ているのかもしれない。6時半取り敢えず少しでも口に出来るものを食べることにする。お互い話すゆとりもなくそうそうにシュラフに入る。7時半だっただろう。さすがに寒い。着られるものを着込んで自分の体温でシュラフを暖めながらいつのまにか寝入っていた。


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ヒマラヤトッレキング・・⑧RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月30日(日)ゴーキョ~ゴーキョ・ピーク~ゴーキョ

今日は一日ゆっくりゴーキョに滞留するのと昨日のレンジョ・パスからの眺望が余りにも素晴らしく達成感が横溢していること、さらに体力的にも疲労がたまったこともあって朝はのんびりと自然体で起床。結局9時には全員そろって朝ご飯をとる。ロッジの窓越からはどこまでも深い青緑色に染まったドートポカリの後には朝日を浴びたレンジョ・パスとそこから稜線が左右に延びている。左手側には真っ白に雪を頂いた無名のピークが連続してポカリの左手に延びている、右手には昨日下山してきたゴーキョピークがある。しかし不思議なことにこちら側には雪が積もっていない。目をこらして前方の稜線上を見ると辛うじて峠のタルチョーがはためいているのが見えるというか、心の目でそのイメージが浮き彫りになるような感じ。一瞬見えたという実感があったと思うと、その姿が幻だったのかと視界から消える。でも決して幻ではなかった。シェルパ族の鋭い視力でははっきり見えているとのことだから。湖上を嘴の黄色いカラスに似た鳥が飛んでいた。

食欲はないが達成感で元気が戻ってきた。10時40分にピークハントに向かう。ゴーキョピークは標高5,360mだから昨日越えたレンジョ・パスとほぼ同じ高さ。途中までは昨日下山した道をしばらく進む。直ぐに右手に分かれてしっかりしたトレイルを高度を稼いでいく。出発時にはチョオユーが見えていたのでピークでの眺望が楽しみだ。九十九折りのトレイルを一歩一歩登る。全員が軽装で防寒着と飲料、多少のおやつだけだから気が楽だ。4,000m級での登りは斜度というより酸素不足による呼吸障害に悩まされる。でも気分としては昨日の切実感に比べれば今日はいつでも撤退していい状況だから精神的には楽だ。空には部分的に雲がかかってきている。特に後方のチョラ・チェを越えた後にあるエベレスト方面が雲に覆われている。ピークに辿り着いても昨日のような素晴らしい景観は望めないかもしれない。

岩肌に枯れ草のねっこが散見されるだけの荒涼とした足元だ。決して早くはないペースだが確実にドートポカリがどんどん遠くになることでピークに近づいているのを実感。ピークは未だ目視できない。どこのピークハントでも肝心のピークは最後の最後に見えるものだ。山登りの一番辛い気持ちとの葛藤がそこにある。そこはまさにマインドコントロールが必要になる。

ピークに近づくに従って風が強くなり、体感温度が下がってくる。日は差しているのだがウインドブレーカーを着込む。1時丁度にピークに着く。天気は悪くないが予想通りチョラチェとタウチェは見えるのだが、その先にあるお目当てのエベレストやローチェそしてマカルーのピークは見ることが出来ない。ただ、チョオユーだけは雪煙を上げてくっきりと見える。ピークの向こう側には昨日越えてきたレンジョ・パスだ。
ここからははっきりとタルチョーが翩翻とはためいているのが見える。当然とはいえ乾期だから視界が良いというわけではないのを知る。今までのヒマラヤ山行では当然のように美しい景観を堪能してきたことがラッキーだったし、昨日の同時間帯に雲一つ無く完璧なに視界が得られたことも運の良さを感じた。

記念撮影をしてエベレスト方面の視界がきくのを期待して待機したが、雲は厚く視界が聞くタイミングは期待できそうもないので、早々にピークを去ることにした。足元には遠くドートポカリが不気味な深い緑紺色の底無し湖のように不気味に横たわっている。このポカリには魚は住んでいないそうだ。















その奥にはンゴズンパ氷河がチョオユーの方から押し出されてモレーンを作っている。雨期の後だからか氷河の上には砂が一面に覆っていて一見だけでは氷河とは思えない。それは所々に穴が開いて氷が頭を亜している。ただひたすら九十九折りのトレイルを下る。500m強の下りは膝の負担になる。 3時20分にはゴーキョに戻る。相変わらずチョオユーだけはピークをしっかりと見せてくれている。
今回は4人でクーンブの山に入ったが、私ともう一人はゴーキョからさらにチョラ・パスを越えてカラパタールに向かい、残りの二人は日程の都合があるのでゴーキョから直接ナムチェに向かう、ここで分かれて行動するのが当初の予定だった。しかし、私たちは正直言ってここからもう一度5,680mの峠越えに耐えうるだけの体調になっていない。二人とも腹の具合が最低で食事もろくに取れない状態が続くし、気持ちの上でレンジョ・パスの眺望が余りにも素晴らしかったこととチョラ・パスからの眺望に大きな違いがないとの話も聞いていたので挑戦意欲も後退してしまったのも正直な気持ちだ。

今日中に明日の進路を決めておかなければならない。ここで撤退するのか多少無理してでも計画通り進めるのか悩むところだが、二人の結論はここで無理をしないという決断だった。その結果、別行動になる4人だったがカトマンドゥに一緒に帰還することになった。

ゴーキョに着いて食堂で団欒をする。もう一度昨日越えてきたレンジョ・パスを目に焼き付けておきたい。達成感とは裏腹に体調は最低。夕食も簡単に済ませた。ゴーキョには4,750mにも係わらず7件のロッジがあるが、さすがにハイシーズンたけなわ。ロッジ裏にある広場に同じ色をしたテントが幾つも張ってあり、今晩の夕ご飯の準備、あるいは干してある衣類を片付けたりして忙しそうにしていた。

夜には満天の星。仲間の一人は星を眺めに凍てつく外に出て感動していたようだ。私は横着をして既に寝袋の中。そうそうに夢の世界に入っていった。


ヒマラヤトッレキング・・⑨RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

10月31日(月)ゴーキョ~ドーレ


我々が泊まっているロッジはチョオユービューロッジだ。7件あるロッジの中では最もロケーションが良いポカリに面している。7時に起床。窓のガラスは氷が張り付いてガラス細工のように美しい。朝方の写真を撮ろうと表に出る。さすがに寒い。天気は快晴。ゴーキョピークの右手に見えるチョオユーの姿が美しい。

なだらかな稜線を従えてゆったりと構えた姿には畏怖とか恐怖とかの言葉は馴染まない。ただ相変わらず稜線そしてピークには雪煙が上がっているので相当な強風が吹き荒れているのが分かる。8,000M級で唯一専門家でなくてもチャレンジできる可能性を持っている唯一の山と言われている。ルートはチベット側からのアプローチになるそうだ。高度順応など決して楽な登山でないことは云うまでもない。
ポカリの湖岸に近づき何枚かの写真を撮る。すでにゴーキョピークに向かうトレッカーがピークを目指して登っている姿が見える。エベレストを眺望するためには大気が安定している朝方が望ましいので3時ぐらいから登るトレッカーが普通だ。彼らがエベレストの雄姿を拝めることを切に祈る。

幕営中のトレッカーも既にテントを畳んで出発の準備だ。我々も準備を整えて9時に出発だ。
暫くは湖岸沿いに平坦なトレイルを進む。前方左手にはチョラチェ、タウチェが望める。
とても個性的な山だ。どこからも間違いなく確認できる。ドートポカリから離れて先に進むとその右手を岩をぬってせせらぎが続く。しばらく進むと再びポカリが現れる。タボチェショと呼ばれているドートポカリより遙かに小さい湖だ。岩場の連続、草木は一切無い世界。雨期は違うのかもしれないが少なくとも乾期には生命の欠片もない。10時10分3っ目のポカリに着く。

規模はさらに小さく池だ。そこまでのトレイルはほとんど平坦な道のり。長閑な下山だ。岩や岩の欠片が散乱している中に岩を積み上げたケルンがある。賽の河原という感じだ。後ろを振り返ると徐々に姿を変えてはいるがチョオユーの姿を望むことが出来た。

10時35分、流れが勢いよく落ち込んでいる岩の間を跨ぎドートコシになる流れの左岸に移る。

下山する前方には少しずつ薄い雲がたなびき始めた。雲の上に突きだした形でタムセルクとカンテガが目に入る。この山も特徴的で識別がしやすい山だ。ここからは緩い傾斜を下る。前方にトレイルが二手に分かれているのが見える。左手に移り山肌をトラバースするような道が当初目指したチョラパスへのトレイルだ。もしかしたら歩いたかもしれないトレイルに思いを馳せながら我々は真っ直ぐに伸びるマッチェルモを目指す。 11時プラトー状の所で小休止。すぐ前にはログポンバの小屋が見え、そこからチョラパスに向かう道の分岐も見える。対岸にはいくつものカルカが広がり、その延長線上にはチョラ・チェ(6,335m)がある。すでにドートコシは遙か眼下になり大きな流れに変わっている。青い屋根の家々が集まったチュギマの集落も見える。 11時25分チョルテンを通過。11時35分小休止。パンガの集落の入り口にあるバッティーでツナ・サンドイッチとみそ汁を食べる。ここのパンはパサパサで喉を通らない。レモンティーで無理矢理流し込む。食欲は相変わらず細い。若夫婦と子供2人のバッティーだ。ドートコシは大きな渓谷になって対岸との距離はますます遠く、対岸の山腹にはポルチェを経由してパンボチェへそしてカラパタールに向かうトレイルが続いている。

12時35分出発。トレイルはヤクの移動や雨期には水路になっているのだろう深く溝が掘られていて一寸歩きにくい。我々が歩いている右岸はドートコシの西側になるので日陰になっているところが多く肌寒い。右手からコーラが流れ込んでいる。そこに向けて一気に下り1時15分。ここがマッチェルモ(4,410m)だ。コーラを挟んで2件のロッジがあるだけ。長閑な落ち着いた雰囲気の空間だ。ネパールの雰囲気というより西欧的テイストのリゾートみたいだ。

1時半には出発。峠にはためくタルチョーを目指して急峻な坂を喘ぎ喘ぎ登る。その先にはタムセルクが望める。1時半、対岸前方に大きな集落ターレの街が見える。ここまでのトレイルは大きな下りながら時には一寸した登りが繰り返す。

すっかり雲に覆われて薄暗く肌寒い天気だ。峠を越えると急にフラットな広がりになる。直ぐにルッツァ(4,360m)の集落だ。カンテガビューロッジで休憩。ここの経営者はクムジュンの人らしい。 2時20分に出発する。まだまだ4,000m級の高度だから一寸した登りになると一気に息が上がる。タムセルク、そしてカンテガが進行方向正面に見える。ドートコシは一層深い渓谷になり、対岸との距離はさらに遠くなる。両岸にあるトレイルはほとんど同じ高度で並行して下っている。対岸には正面にターレの街が広がっている。天候が安定していないのでタムセルクやカンテガのピークがのぞいたり隠れたりになったきた。
対岸の並行していたトレイルはこちらより高度を下げている。ターメからゴーキョまでのマイナーなルートに比べればゴーキョからの下山ルートはなるかに人気コース。トレッカーが相当行き交うのではと予想していたが、意外にも行き違ったトレッカーは日本人の中高年層の団体とイタリア人のグループ、その他多少の白人達とは行き交ったものの予想を下回る数だった。ガイドブックによればエベレスト一番の人気はなんと言ってもナムチェからカラパタールを訪れるルートそうだ。


3時にはラバルマ(4,330m)に着く。カルカに囲まれた静かな佇まい。定住する人がいると云うよりトレッカー対象のロッジと放牧時の番屋の町のように見える。天気はすっかり日差しが消えて灰色の世界。ここからはポルチェの街がはっきりと見える。対岸のターレは振り返ると尾根の陰に隠れてた。

ポルチェはこの一帯では大きい集落だ。印象としてはナムチェに次ぐ規模ではないか。急な下りでないので救いだ。ただ、なかなか高度が下がらない。まだ4,300mはあるだろう。気温は6度にまで下がってきた。3時30分急峻な下りの先にドーレ(4,110m)の街が見える。一気に下るとプーレコーラが流れ込み、その手前とその先に何軒かのロッジが点在している。ここが本日の宿泊地。コーラを渡った先をまた一気に登ったところだ。3時55分に到着。 この行程では迷うこともなく危険もないので、それぞれ各自のペースで移動していたため3グループに分かれて移動する結果になった。自分は先行したのでみんなの到着する姿を上部からカメラにおさめる。


















周辺には石楠花が群生している。気がついてみれば岩場から低草木帯に移っていた。春先には美しい景色が展開するのだろう。坂道に沿って建てられたロッジなので地下から入って寝室はその階にある。食堂は階段を上がったところにある。そこには玄関があってその前が坂道の上に当たるわけだ。全員食欲不振なので、今晩はマンバトルが作ってくれたみそ汁にサラダ、日本から持ってきたお粥に魚肉ソーセージのマヨネーズ和えで腹を満たす。食堂には3人のドイツ人グループとイギリス人の団体が居たが、何れも極めて下品な振る舞いに気分を害する。みんなで火を囲んで身体を温めていると、後のテーブルに座ったイギリス人はまるで邪魔者を排除するように怒りを露わにして”どいてくれ”という。その後も何かにつけて我々に侮蔑の視線を送り続けた。忌まわしい人種差別を肌で感じるほどの身の毛も弥立つ思いをしたのは生まれて初めてだ。日頃は教養ある白人との接点を経験してきたなかで欧米社会の底流に潜む歪みを感じた瞬間だった。我々全員が不快の中、結果的には彼らの不快な視線を無視して団欒に花が咲いた。身体が温まり一緒に部屋に戻り就寝につく。


ヒマラヤトッレキング・・⑩RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

11月1日(火)ドーレ~ナムチェ・バザール

仲間の一人が「ドーレの裏山から見たチョオユーが大変美しい」とのガイドブック情報を思い出し、彼と二人で朝食前に登ることにした。残りの二人はこの計画には不参加となった。
5時15分出発。小屋の前の尾根を横切っているトレイルから離れて尾根に沿った道を登る。暫くは獣道か地元の人が使っているのか踏み跡がしっかりとしているので真っ暗ななかでもヘッドランプで楽々歩けた。

傾斜もそれほどきつくなく、頭は未だ起きていない状態だがなんとかダワさんの後を追うことが出来る。最後尾にはパッサンが付いてきてくれる。ここは高度4,000mを越える高所の朝だからかなり冷え込んでいる。手袋にダウンジャケット、そして帽子を被っての重武装。裏山と言っても日本とは違ってタフな登りだ。しかも、直ぐに道らしい道も消えて霜が付いている草をかき分けての登りになる。

ダワさんはスニーカーでまるで鼻歌交じりで手も使わずに直登していく。彼にとってはこんな場所は子供の時からの遊び場かもしれないけど、我々は都会人なんだから少しは我々のことも考えてよ、と叫びたくなってしまう。万が一に備えてストックを持ってきたので何とか足が滑ったり、よろけそうな時にバランスを失うことはなかったが、息も上がるのでなんと辛いことか。徐々に空は白み始めて明るくなってきた。稜線は空に向かって限りなく続くのでさてどこまで行くのか不安になる。左手に付きだした岩が見えてきた。トラバースしながら岩の上に立つ。トラバースは直登より神経を使う。何しろバランスが取りにくいので。

ダワさんからこのあたりで戻りましょうと言われてホットした。上に行けば行くほど良い景観だろうけど際限ないしどこで妥協するかの話だ。 6時10分、丁度朝日を受け始めたチョオユーが雪を赤く染めて美しい。4人でそれぞれチョオユーをバックに記念撮影。しばらく眺望を楽しんで下り始める。でもガイドブックで紹介されたというほどの景観だったとは思えなかった。我々は既に素晴らしい景色を見た後だからどんな景色を見ても感動出来ない状況なのだろう。

草が敷き詰められてしかも霜が付いていると下山は神経を使う。勢いよく下山したので6時45分にはロッジに着く。ところがパッサンともう一人の仲間が帰ってこない。さてどうしたことだろうとダワさんが心配して確認に行った。しばらく時間が経った頃二人が戻ってきた。足の調子が気になってゆっくり下りてきたそうだ。何事もなくてホットした。冷え切った身体を温めるため直ぐにブラックティーを所望する。

9時に出発する。既に同宿の不愉快なトレッカーはみんなゴーキョを目指して出掛けた後だった。対岸にはポルチェの町がそしてその先をカラパタールから流れて来るイムジャコーラの対岸稜線上にはシルエットになったタンボチェのゴンパの大きな屋根が見えている。そして進行方向正面にはカンテガその右手にタムセルクが聳え立っている。

足元にはリンドウが咲いていた。気がつくといつの間にか樹林帯に入っていた。石楠花が群生している中にヒマラヤ杉がぽつんぽつんと立っている。左手のドートコシの谷はますます深く広くなっている。道筋に仏教徒達がお祈りの際に焚く檜葉のような針葉樹がある。その葉を火に炙ると神々しい香りで祈りの気持ちを高めてくれるとか。ガイドによってはこれを大事に採取して持ち帰るそうだ。

9時30分右手に大きな岩盤から幾重にも滝が落ちこんでいる。不思議にこのルートでは大きな滝に出会うことがほとんど無かった。アンナプルナを巡ったときには素晴らしい滝の連続だったのとは大違い。10時ここは3,800mほとんど水平かつオープンなところのトレイルを進む。この一帯に群生している石楠花は白い花を咲かせるそうだ。ヒマラヤは石楠花の花が有名だが、とりわけランタンとアンナプルナの赤い石楠花が美しさでは突出しているようだ。

ふと左手の対岸の奥を見上げれば沢山のタウチェがはためいていた。。10時15分見晴らしの良いところで小休止。10時30分にはかつてネパール軍駐屯地であった建物の前を通過。標高3,700M、前方にはポルチェ・テンガの集落が見える。テンガとは谷を意味するそうだ。ここまで下りると吹き抜ける風も冷たさより少しずつ暖かさを感じるようになっていた。

ドートコシの流れる数百メートル下にある谷底を見れば、川を挟んで数軒の家がある。そこはプンキ・テンガだ。初めてヒマラヤに来たのは4年前の2月だった。未知の世界への挑戦は今となってみれば何でもないと思われることが不安と興奮で緊張の連続だった。その時のルートがナムチェからこのプンキ・テンガを経てタンボチェまでの急登、喘ぎ喘ぎ登ったことが生々しく蘇ってきた。そしてタンボチェからナムチェに戻る途中で生まれて初めて高山病を経験した苦い思い出がある。

10時50分ポルチェ・テンガに着く。11時10分モン・ラに向けて出発。目の前には疲れ切った足には恐怖の標高差300mの急登だ。眼下にはドートコシの急流が岩を削りながら白く砕け、この一帯の景色は日本の渓谷の姿に類似している。しばらく行くとドートコシに落ち込んでいる傾斜地の岩棚に数頭のカモシカが草を食むでいた。

対岸進行方向にポルチェの街が見える。街の一番高いところにゴンパが聳えている。スケールはそれほど大きくない。ダワさんによれば人口は1500人程度の集落とか。正面にはアマ・ダブラムとカンテガが雲間から見える。チョウタラで小休止していると、下の方からインド人三人がインド人特有の服装でゴム草履を履いて天秤にプラスティックの食器などを下げて登ってきた。慣れているのだろうが見る目には寒々しいというか痛々しく格好だ。しかし、本人達はごく普通のことのように振る舞いながら上を目指して行った。

一休みしてさらに上を目指す。ドートコシの両岸に道が刻まれているのだが、対岸のポルチェの街がこちらより低くなってきた。進行方向前方には、プンキ・テンガの少し上流でドートコシとイムジャコーラが合流していて、そのイムジャコーラに落ち込んでいる稜線を上に向かってタンボチェ(3860m)に辿り着くトレイルが見える。この一帯では最大のゴンパが見えている。そしてその先には少し下がってデボチェ(3820m)の集落が見える。

12時15分小休止。3920mの地点。行程の最後に近づいた気の緩みもあって登りは堪える。今日は天候が安定せず稜線があっという間に雲間に隠れてしまう。さっき見えたアマ・ダブラムは雲間に消え、カンテガはまだなんとか確認出来る。一歩一歩最後の体力を振り絞って峠を目指す。12時25分漸く峠にあるチョルテンが視界に入った。もうすぐだ。3970mの峠に着く。

そこはモン・ラだ。ここには2軒のロッジがあり我々はチョルテンの先にあるロッジに入る。トレイルの左手傾斜地に足場を築いて建てられている。ここで昼飯になる。チョルテンの後方に雲の流れの一瞬一瞬にアマ・ダブラムが覘く。その一瞬をとらえて記念撮影を試みたが生憎タイミングがずれて良い写真にはならなかった。

2時には出発。タンボチェ、デボチェそしてパンボチェとカラパタールに向かうトレイルが見える。なだらかな道だ。天気が良ければエベレストやローチェを見ることが出来るのだが、残念ながら雲の中だ。日差しはあるのだが、雪が舞ってきた。2時25分前方下にキンジュマのロッジが見える。そして右手にはクムジュンの集落の外れの家々が。眼下にサナサのロッジがある。ここからは一気の下りだ。サナサで交差している道を右手に登ればクムジュンへ、左に下ればプンキ・テンガを経由してタンボチェだ。この一帯はまさに交通の要所と言える。


















ヒマラヤに最初に来た時に通った道はその時雪も一部に積もり、土道は雪解けでぐちゃぐちゃになり、足を奪われながら下った記憶がある。でもこちらの道は整備されて石積みの階段状になっている。2時45分クムジュンへの道と交差した地点を通過。ここからは若干の登りもあるがほとんどフラットな道だ。50分には左下にサナサのロッジを見ながら先に進む。ここでプンキ・テンガへの道が分かれている。左手前方にはキンジュマにあるロッジの屋根が見える。

3時にキンジュマのロッジの前を通過。ここ迄来ると突然都会的な雰囲気に変わる。おみやげ屋も数件あるし、ロッジも高級感がある。おそらくナムチェまで来たトレッカーがこの一帯のトレッキングでエベレストやローチェを眺望して帰る、そんな人たちが多いからかもしれない。トレッカーも急に多くなった。一帯には石楠花や岳樺がかなりの高さに成長している。3時20分少し登り気味の平坦な道を進む。左手は木々や草が繁茂している。その先には深く落ち込んだ渓谷があるのだが深く落ち込んでいるのでその流れを見ることは出来ない。深い谷になっている。

3時40分雲が厚くなり夕暮れ時の雰囲気、左手の草地に大きな角を持ったカモシカのボスと十数頭のメスに子供の一群がゆったりと草を食むでいた。我々の存在には全く関わりないようにおっとりと動かない。ポーター達はカメラ視線をこちらに向けさせようと石を投げたり口笛を吹いたりして彼らを動かそうとしたが、我関せず。カメラを向けたが保護色でもあったので良いアングルにはならなかった。

3時45分前方にチョルテンが見える。タルチョーも沢山翻っていて人の気配を実感する。ドートコシ沿いに幾重にも稜線が落ち込んで霞んだ先にはルクラがある。4時丁度3600mの地点マニラを通過、4時10分左下草地にダフェ(ネパールの国鳥でキジの一種)が番で数組餌を啄んでいた。4時15分ナムチェにある軍隊の駐屯地、そして山岳博物館が見えてきた。もうナムチェは遠くない。後を振り返るとサナサが見える。前方にはコンデリの山群が屏風のように立ちはだかっている。6000m級の山々だ。

4時50分にナムチェの街に戻る。ディハールの祭りが始まっていて、人混みに圧倒される。十人弱の舞楽団がテープで流される音楽を背景に踊っている。丁度ホテルの前の小さな空間を占領して踊っている。その周りには観客が取り巻いている。ホテルの入り口に入ることすら出来ない状態だ。踊っている連中は十代の女性が中心。姿からはインド風なのかネパール風なのか私には区別が付かない。ディハールはヒンドゥー教を信仰している平野部から南部の人々のお祭りだからチベット教を信仰しているご当地では盛り上がりもいまいちのようだ。

這々の体で部屋に入る。今日は無理をしてでもシャワーを浴びたい。ダワさんに頼んでシャワールームの鍵をもらう。順番でシャワーを浴びて長い山行の垢を落とし、久しぶりの清潔な身体に戻ってホットした。トレッキングの最中は綺麗だ不潔だを気にせずにいられたが、さすがにここまで来るとお湯が恋しかった。

食堂では既に多くの白人トレッカーがグループごとで会話を楽しんだり、トランプに興じる者、酒を酌み交わす者それぞれだった。相変わらずこのロッジは満員。席を確保するのに神経を使った。ヤクステーキやラザニアを食べて今までの飢えを充たす。外ではシトシトと霧雨が降っていた。タシデレ!シェルパ族の挨拶。ナマステと同義語だそうだ。お休みなさい。


ヒマラヤトッレキング・・⑪完RENJO LA越えでゴーキョへ(エベレスト,ローチェ、マカルー、チョオユー) [ゴーキョー]

11月2日(水)~5日(土)  ナムチェバザール~ルクラ~カトマンドゥ

6時に起床、7時には朝食を食べる。今日は一気にルクラまでの下山だ。ナムチェでは久しぶりの西欧風の朝ご飯。トーストにオレンジジュース、ハッシュドポテトに茹で卵。このロッジでの定番のコースだ。天気は雲一つない快晴。

ここからルクラまでは登って来た往路を下山するので勝手知ったルートだ。往路ではルクラからパクディンでまず一泊、そしてナムチェバザールだったが、復路は一気に下山する。距離的にはタフだが、ほとんど下りだけだから疲れているとはいえ気持ち的には勢いが付く。賑やかなナムチェの町中を潜り抜けあっという間に町はずれの石段上の道になる。尾根の右側をトラバースしながら暫くはなだらかな下りだ。道は乾期のために乾ききっている。トレッカーが行く後に土埃が舞い上がり後を追うトレッカーにとっては辛い状況になる。マスクを出して何とか防御だ。ゾッキョのキャラバンと行き違うときは最悪だ。 8時45分チョウタラの前で小休止。往路では曇天だったのでここからは何も見えなかったが今日は幸いエベレストとローチェが木の間隠れにくっきりと見ることが出来た。

50分には出発。ここからは九十九折りの急な下り。一歩一歩を踏む毎に腿に負担がかかる。山登りの習熟度は下山時に顕著に出る。リズミカルに余り踏ん張らないで下りると足への負担は軽いのだが、慣れていないとどうしても一歩一歩確実に足を運ぼうとして負荷が大きくなって筋肉を痛めたり、膝に来てしまう。
右手から沢なりの音が聞こえるようになってきた。ボテコシが近いことを示している。急坂の終点地点になる吊り橋の手前に着く。ゾッキョの一帯が行き過ぎるのを待って9時25分対岸に渡り一休み。30分には出発し河原に向かって一気に下る。遙か上にさっき渡った吊り橋が見上げるような上に揺れていた。










ここまで下りると土埃は全く気にならなくなった。通る風も気持ちいい。今、標高2,800m地点にいる。10時30分ジョサレで渇きを癒してロッジを出る。タムセルクが美しく聳えている。
何度見ても美しい山だ。ジョサレを出て直ぐに吊り橋を渡ると国立公園のゲートへの急登が待っている。疲れ切った足にはきつい登りだが、その先になだらかな下りが待っていると思うと気持ちも軽くなる。10時45分登りきると国立公園事務所で簡単な手続きをしなければならない。入山するトレッカー、下山するトレッカーでごった返している。そこを通過するのに相当の時間を要してモンジョに向かう。モンジョは2,835M地点、周囲は青菜の栽培や畑が広がって一気に農村風景に変貌していた。行き交う地元の若者を見ていると東京でも見られるパンツをづりさげて穿いたり、メッシュを入れている若者がいたりしてこの世界は違いがない。経済的に豊ではないのにファッションだけは先行して伝播するものだ。モンジョを過ぎるとまた下りになる。集落を通過する毎にだんだんディハールの祭り気配が伝わってくる。十人弱の集団がテープ音楽をバックに踊りながら進行している。そして行き交う人たちにドネーションを期待しているように見えた。我々はそれを無視して先に進む。チョモア、ベンカールを経由して1時にはパクディンの集落に入る。往路で泊まったナマステロッジで昼食を取る。ツナサンドにシェルパスープ。2時には出発してルクラを目指す。ガートを経由してチップルン(2,610m)に着く。3時15分。ここまで来ればルクラはもう遠くない。ロッジで一息入れる。この先はなだらかな登りが多くなり、一寸気が重いが最後の気力を振り絞って頑張ろう。4時30分ルクラの村はずれにあるカンニを通過。ルクラの街並みを通り抜けて往きと同じロッジに泊まる。
4年前に来たときにあった日本風ふろ屋があったはずの所に行ったがどうも業種替えをしたようだ。今ではカフェになっていた。残念。お湯たっぷりのお風呂を堪能したかった夢が破れてしまった。やむを得ない。ホットシャワーで身体を洗う。宿泊客が多い。トレッカーも多かったが、現地の人々が半分占めていた。現地の人は小学生、中学生達とその家族が多いのに気がついた。みんなシェルパ族だ。この山岳地方でも多少豊かな家族では子供達をカトマンドゥの学校に通わせている。大方は親戚筋を頼るそうだが小学校から下宿生活になる。教育熱というのはいずこも同じだ。

丁度ディハールのお祭りで学校が休校になり、それを利用して里帰りの生徒が休暇明けでカトマンドゥに戻る集中日に当たっていたようだ。ほとんどが母親と子供の組み合わせ。飛行場で搭乗するまでを母親が面倒見るのだろう。
子供達の対応は様々でカメラを向けるとはにかんで母親の陰に隠れる子、Vサインを送ってくれる子どこでも同じ光景だ。

同宿しているトレッカーの中に40代半ばだろうかカナダ人が単独でガイドと話をしていた。食堂でお互いが歩んできたコースについて話が弾む。彼はメラピーク(6,476M)に挑戦したそうだ。標高は決して高くはないのだが、雪に覆われたなかのトレッキングは肉体的には極めてタフで、グレード的には難度の高いルートと言われている。残念ながら彼は風邪を拗らせて登頂を断念して帰ってきた。確かに話していても咳が出るし、熱があるようだ。日本事情にも詳しく、我々に対しても極めて誠意を持って付き合ってくれた。余り話を引きずると風邪引きには気の毒なので早々に記念撮影をして別れる。

当地は相変わらず夜間外出禁止令が布告されているので6時以降になるとあの賑やかな街並みから人影が一斉に消えて息を潜めている緊張感が漂う。

3日、いつものように6時に起床。パッキングをして7時には朝ご飯。すでにマンバトル、ミンミャーそしてウメッシュ3人のポーター達はカトマンドゥに向けて3日間をかけて歩いて帰る為に出発していた。我々と一緒に飛行機に同乗するのはガイドのダワさんとポーター頭のパッサンだ。
山岳でのフライトは天候によって左右される。ルクラの気象条件は申し分ないが、カトマンドゥのスモッグはどうだろうか。気を揉んでいたら9時には1便がランディングした。ロッジは飛行場に最も近くなので状況が確認しやすい。ただ、心配なのは予約していたフライトより数日前への変更なので予約が取れるかどうか、ダワさんも不安そうにしていた。ダワさんは飛行場に行って航空券の変更手続きだ。後で分かったことだがディハールで帰郷した生徒達ともろにぶつかっているのでキャンセル待ちも大変な状況だったそうだ。数時間状況が見えないまま不安な状況が続いたが、昼過ぎに漸くフライトが決まり飛行場に詰める。一旦搭乗手続きをして待合室に入ったが、昼ご飯を取ることになって飛行場前にあるジャーマンベーカリーに入り、好みのパンとコーヒーで済ませる。再び待合室に戻り、さらに待機場へ入場して滑走路の近くで腰を下ろして雑談をしながら飛行機の到来を待つ。
2時半頃突然2階の窓から大声が聞こえた。「キャンセル、キャンセル」という声に何事かと待機している登場予定者が怪訝な顔をしながら見合った。ネパール語なので詳細は分からなかったが、ダワさんの説明でフライトが欠航になったと言うことだけは確かめられた。こんな良い天候なのに何故だ、と言う疑問への回答はロッジに戻ってから分かった。ディハールの最終日なのでパイロットが3時以降は休暇に入ってしまったと言うことらしい。多くの搭乗予定者は飛行場を後にしたが、明日のフライトへの変更は彼らと競合するわけだから大丈夫なのか不安が過ぎってきた。
未だ昼下がりなので時間をもてあます。さて、みんなでどうしようかと考えた結果が当地のゴンパに行くことになった。午前中に読経の時に吹かれるラッパの音が敬虔な雰囲気というより騒々しいぐらいの音を立てて響き渡っていた。さてその音源を尋ねようと云うことになった。ダワさんは明日の航空券の手配とかでバタバタしているので、パッサンに案内をして貰う。ルクラの街はディハールで賑わっている中、人をかき分けてロッジの前を通り過ぎて前進する。
町中で左に曲がる。このルートはジリに向かう道だそうだ。しばらく道なりに進み、両側が畑になったところを右手に。しばらく進むと左手にゴンパがあったが、近づいてみてビックリ。ゴンパは外見的には完成しているのだが、中はがらんどうだった。





未だ再建途上だと云うことだ。午前中のあの音はどこからだと、パッサンに尋ねると、この中で祭事は行われているとか。ゴンパの左手前にペインティング・スクールとの看板があってそこから人が現れた。彼はそこの管理人のようだ。そして是非中を見て欲しいとのこと。好奇心に誘われてその中に入る。奥からたくさんの「タンガ」(仏教画)を持ってきてそれぞれの評価を話し始める。ここでは8才から20才ぐらいの若者が仏画を勉強しながら、宗教教育も受けられる施設だそうだ。このゴンパは300年前からあったゴンパが朽ち果てていたものをドイツ人の寄付で再建中とか。
巻物になった布に描かれた仏画は巧拙で値段に違いがあるが、折角なのでドネーションの意味も込めて4点ほど買い求める。一点が300ルピー前後。やはり素人目にも良いと思うのは高価で現地の物価から考えればかなり高い買い物には違いない。
ロッジではヤクステーキを注文する。飢えた生活の連続だったからか大変美味しい味で感動だった。仲間達は大好きな酒を登山中は慎まざるを得なかった禁欲生活から解放されて、酒を注文する。現地酒の所謂ドブロクが安い。ダワさんからは日本人には向かないとの話にもかかわらず酒好きは手が伸びるようだ。嗜んでみたら意外と美味しかったそうだ。今年はヒラリーがエベレスト登頂50周年の年に当たっているのでネパールのビール、エベレストビールの記念版が売られていた。今晩は酒も入ってみんな言いたい放題の雑談を楽しみながらくつろいだ時間が過ぎていった。残された心配は明日のフライトに乗れるかだけだ。外は外出禁止令なのでしーんと静まりかえっている。

11月4日安定した天候に恵まれて今日は早朝の6時半頃にはカトマンドゥからの飛行機が到着している。続々とそれに続いて飛行機が着陸だ。先ずはホットした。我々の運命は天候による欠航が無いのが前提、その上で予約が取れるかどうかに係っているのだから。ダワさんは我々が起床する前から持ち込み荷物を持って飛行場に出向き予約の確保に奔走しているそうだ。朝ご飯を済ませいつでも出掛けられるようスタンバイしているが、なかなか手配完了にならない。ロッジの前で日向ぼっこをしながら時間の流れに任せる。人の行き来でごった返している人たちを見ると不安になる。彼ら達と予約で競合しているわけだから時間が経ってくると不安になってくる。私は余裕がある日程なので問題無いにしても仲間のうち二人は帰路の予定ぎりぎりになっているので心配だ。11時にはロッジ前にいてもしょうがないと云うことで飛行場前のジャーマンベーカリーに向かい、お茶でも飲もうと云うことになる。時間の経つのが遅い、一向に埒があかないようだ。ダワさんの顔も心なしか暗みがち。さすがに不安が過ぎっているようだ。1時ちょっと前ダワさんが手にチケットを持ってジャーマンベーカリーに入ってきた。漸く発券された。昨日のことがあるから安心は出来ないが取り敢えず搭乗手続きをして構内に入る。
今日は乗り損なうこともなく機上の人となれた。右手にヒマラヤの山々が見えるので全員がその席を狙っているため、飛行機に乗るときの先陣争いは厳しい。順番に対する意識はどうも白人といえども決してお行儀が良いとは言えない。待っている順番を無視して先に出ようとしたがる輩もいる。中国人に割り込まれた経験はあったが、先進国の白人ともいえども一皮むけば大した違いがないのが分かる。
私の隣に50代のシェルパ族の人が座った。離陸してしばらくすると片言の英語で話しかけてきた。彼はパクディンの手前でロッジを経営しているそうだ。普段はトレッキングのガイドをしているのでカトマンドゥに住んでいるとか。彼もディハールで実家に帰っての帰路だそうだ。飛行機から見える山の名前や足元に見える街の名前など丁寧に教えてくる。シェルパ族の人は日本人にとって親しみやすい人たちばかりだ。

カトマンドゥではフジゲストハウスに泊まる。仲間二人は翌日のフライトの確保が課題だ。いずれにしても夜のフライトなので明日朝一番でロイヤルネパール航空の事務所に行って交渉をすることになる。我々は計画を途中で中断した結果、日程に余裕が出来たのでダワさんとCHITOWANに行く手配を頼む。


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