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ゴンドゴロ・ラからK2⑭ カプルーからの帰路(201008011~19)完 [ゴンドゴロ・ラからK2へ]

ファイサルさんがようやくの思いをして車を調達してくれた。なにしろ車はあれど燃料が枯渇しているので、交渉が大変だ。相当足元を見られているようだった。カプルーからスカルドまでは快適な道を約3時間走る。窓からは水害の足跡があちこちで目に入る。河岸にある樹木は本来なら陸地にあるはずだが、まるでマングローブのように水の中に突っ立っている。吊り橋の手間で検問を受けてインダス川を渡り、右折する。左に行くとカルマンそして方角的にはラダックに繋がっているそうだ。
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市内に入るとガソリンスタンドは開店休業、店前を障害物で塞いでいる。確かに行き来する車の量も以前と比べたら半減はしているように思える。まずはモテル・カンコリアに向かう。本来のスケジュールでは17日スカルド発の予定だから、フライトを取るにしてもキャンセル待ちは覚悟しなければならない。今晩はスカルドに泊まり、イスラマバードへの交通手段について情報を集める。
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今までの情報を要約すると、飛行機が使えない場合の方法として陸路での移動はKKHがギルギッドからチラスまでが不通、さらにスカルドからギルギッドまでも不通になっている、もう一つの可能性はダオサイ峠経由でアストールに出てからチラスに向かいKKH経由で行くルートもあるらしいが、この道もどんな状況になっているのか。飛行機以外はどうも袋小路になっているようだ。

丁度ラマザーンの真っ最中なので、ホテルでは食事が出ない事もあり、夜はスカルドのバザールに向かって手前左手奥にあるレストランに行って食事をする。往路でも寄ったレストランだ。味はこの地にしてはすこぶる美味しかったことを記憶している。その店に着いたのは7時半頃だった。日没後には食事が取れると言うことで、人でごった返ししていた。空席を見つけて座り、注文をする。

普通の日のような段取りなので注文したらすぐ出てくると待ち構えていたがなかなか出て来ない。周りを見回してもテーブルには何も置かれていない。どうも20時が断食明けの目安になっているらしい。20時を過ぎた頃からぼちぼち皿が運ばれ始めた。げんきんなもので山岳地方から戻ると、胃袋もすっかり復調して食欲がわいてくる。

隣にあるモスクからは引き続きコーランが拡声器に乗って町中に響き渡っている。それもあちこちにあるモスクが同時に流すので騒々しいことこの上ない。町中が気のせいか明かりを落とし、店も休業していたりする。

12日にはキャンセル待ちで早めに飛行場に向かって並ぶことになった。情報では数日フライトキャンセルが続いていたので、空きはなさそうな雰囲気だが、いつになったら飛行機に乗れるのか確定出来ないので、出来ることは全て尽くそうと言うことだ。
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飛行場はモテルからは街を横断してその先にある。1時間近くはあるだろうか。たまたまギルギッドに帰る(道が不通で待機中の)同泊していたドライバーが送ってくれた。すでに飛行場前は人だかりだ。ガイドの指示で行列の後につく。列を乱す者もいたり、殺伐とした雰囲気になっている。
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結局その日は航空券を手にする以前にフライトキャンセルで、飛行場を後に、モテルに戻る。時間的余裕が出来たのでダオサイ峠に行く事にしたが、ドライバーもギルギッドに帰る燃料を確保しておきたい、その上道路状態も危険だと言うことで途中にある電力発電用に開発されたダム湖にまで上がり、午後はシガールフォートに行くことにする。

シガールも水害の被害を受けてあちこちに傷跡があった。しかも、フォートはラマザーンで従業員が一人もいないので入れない、当てにした食事もとれない羽目になった。そのまま引き返し途中でようやく見つけたバッティーでビスケットと飲料を仕入れ車中でランチとなる。

未だ当初のフライト日時まで余裕があるものの、飛ぶのかどうか天気次第だし、陸路でイスラマバード入りには道路の回復がいつになるのか、これもいつという当てがないので、ほとほと途方に暮れる。ガイドに陸路の状況確認を頼んでいるが、明日には開通するという話があったり、当分は無理だという話もある。

一つの明るい情報が耳に入った。スカルドはパキスタン軍の最前基地を支える飛行場で、軍用機が病人と外国人を優先して乗せてくれるらしい、と噂が流れていた。軍用機は民間機よりキャンセル率が低いので安心、ガイドにその可能性を質すと、親戚が今日行ったダム湖の現場責任者で軍関係者にも顔が利きそうなので確認して見ると言ってくれた。その夜彼は早速その家を訪ねてくれた。帰って来た彼に結果を尋ねたら、軍隊にあなたの名前を登録してきましたので明日の軍用機に乗れますよ、と言われた。それを聞いて驚喜したのは当然のこと。

13日も昨日と同じように早朝に飛行場に向かう。相変わらず飛行場はごった返して殺気立っている。今日は軍用機に乗るので右手にある軍人用のゲートに向かう。そこにも多くのパキスタン人が殺到して、自分はこんな理由があるので是非乗せてくれ、と叫んでいるようだ。ゲートになかなか近づけないのをかきわけて大声を上げて私は登録している日本人だ、とゲートの向こうにいる軍人に叫ぶ。何度かやり取りしてようやく一人だけ通れるような隙間をくぐり抜け、基地内に移る。

ここから先は世話をしてくれるガイドも居ない、軍隊のルールも知らない、周りをきょろきょろしながらこのチャンスを失わないよう必至に状況の行方を探る。点呼があって、呼ばれた者から軍用トラックに乗り込む。なかなか名前を呼ばれないので不安になったが、最後の方で名前を呼ばれ安堵した。一人で持たざるを得なくなったザックを3つ、しかもそのトラックの荷台は私の背丈よりも高いところをよじ登らなければならない。よろよろしながら人の手も借りてトラックに乗り込む。中は鈴なりだ。

砂漠のまっただ中にテントが張ってある。そこで下ろされて待機するように言われる。テントは小さく全員がそこに納まらないので砂漠に腰を下ろし、帽子やタオルでじりじりと肌を刺す日差しを躱しながら待つ。1時間も待っただろうか、ジープで軍人が来て一言、出発時にメカトラブルで遅れているのでしばらく待機して欲しい、とのことだった。

そのうちに遠くから爆音が響き、ようやく到着かと喜んでいたら、機体がはっきり見え始めて分かったのはそれが軍用機ではなく、民間機ボーイング737だった。なんと空喜び。おやおや不安定な運行と言われる民間機が来たのに軍用機はどうしたのだろう、と不安が過ぎる。こんなことなら最初からキャンセル待ちで民間機を待機すれば良かった、後悔の念に駆られる。

汗まみれになって待機していたら、ジープが来て私を呼ぶ。これに乗りなさい、ということだ。もしかしたらガイドの手配で民間機への段取りが取れたのではと淡い期待を持ってジープに乗り込む。軍人の配慮で民間機の搭乗窓口に下りると、ガイドが待ち構えていた。再び搭乗窓口でチャンスを待ったが、結局は今日も空しく空振りとなる。軍用機の最終結論が出ない前にこちらに移ったので、「二兎追う者は一兎も得ず」と言う諺を思い出していたが、幸か不幸か軍用機はトラブルでディレイではなく、最終的にキャンセルであることがすぐに分かってホットした。

陸路が寸断されているので、燃料だけでなく食料も底を突いてきたようだ。朝ご飯はトーストとジャムだけになる。スープも出来ない、バターもない状態になってきた。その上にラマザーンだから外食もままならない。

14,15、16、17日と毎日飛行場通いをするもののすごすごと帰ってくるだけ。さすがにこのままでは余裕があったはずの日程さえも超過してしまうのではないか、仕事への影響も気になり始めた。17日にはギルギッドへの道が不通で待機していたドライバーも道が開通したので今朝発っていった。山岳ガイドのアミンさんもその車に同乗して故郷に帰った。ここに残ったのは日本語ガイドのファイサルだけになってしまい、なんとなく心細い気分になる。

18日、今日の深夜日本に発つフライトを予約している。今日こそ乗れないと一大事だ。今日はこの宿に泊まっているフンザ人ビジネスマンが彼の車に乗せてくれて飛行場に向かう。彼も毎日飛行場に通った仲間だそうだ。日本語ガイドもフンザの出身だったことが幸いし気を使ってくれたようだ。

相変わらず飛行場は殺気立っている。先日登録済みと言うことで同様にゲートインする。その際先日渡したチケットを提示しろと言われてぎょっとした。そう言えば前回は私だけ離れたので、最後の段階で貰うべきチケットをもらっていなかったことが分かった。なんとか拙い英語で理解して貰えてまずはゲートインを果たせた。その後チケットを渡してくれた。

前回同様砂漠で待つこと何時間だっただろうか、11時ジェットとは違った重い爆音を響かせて遠くにある滑走路にランディングした。有名な運搬用軍用機4発のプロペラ機のC130だ。軍事用に運ばれてきた荷物を先ず下ろし、我々が搭乗する。輸送機なのでボディーの後ろから乗り込む。この飛行機には病人、外人のトレッカー以外にも多くの現地人も乗り込み、一睡の隙間もない詰め込みようだ。シートベルトは言うまでもなく座る場所が特にあるわけではなく床に腰を下ろす、隣の人とはスペースを作るため半身で座り、人の上を乗り越えて移動せざるを得ない。想像も出来ない様相に仰天した。

ゆっくりと離陸する。離陸時には激しく傾斜するので前方から後方に向かって全員が押しつけられる。ますます身動きが出来無いどころか傾いたまま、人の足の上に足を置かざるを得ない状態になる。でも全員文句を言うわけでもなく、苦笑いしながら堪え忍んでいる。窓も天井近くにいくつかある程度なので周りの状況も全く分からない。水平飛行に移り少しは楽になったが、押し込まれた状態を改善する余裕もなく、約1時間ほどでイスラマバードの飛行場に着く。着陸態勢に移った時天井にあるパイプから蒸気が噴出して機内が霧で視界が無くなり恐怖が襲ったが、結果的には無事ランディングしたのだから故障とかではなかったのだろう。
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一人旅、飛行場に着いたらどうなるのか不安にはなったかが、それよりもイスラマバードに着いた安堵感が大きかった。飛行場は軍専用のエリアに着いた。ゲートを出たところでサドルさんと運転手が待ち構えていてくれた。そうなるとは期待していたが、彼らの顔を見てこれで今晩の飛行機は大丈夫だと確信が持て胸をなで下ろした。

取りあえずディ・ブリーフィングにアルパインクラブに寄り、アンバサダーホテルに向かう。行く前に寄ったアンバサダーホテルもコックが雇用されてアメニティーを回復していた。たしかにランチもそれなり、部屋を用意して貰って洗濯、そして昼寝だ。23時35分イスラマバード発でBKKへ。6時20分着、慌ただしいトランジットで8時10分発のTG676に乗り込み8時間の行程で一路成田へ。16時に到着。
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振り返れば、スタート時の飛行機トラブルに始まり、現地でのフライトキャンセルの連続、ガイドがルートを再三間違える、復路ではスカルドにほぼ1週間缶詰、それよりも100年に一度と言われる2000万人の被災者が出た大災害、計画を途中で初めて断念せざるを得なかったトレッキング、今回はじめて自然との出会いの難しさを実感したのはいい経験だったと今となっては言えるようになった。


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