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ゴンドゴロ・ラからK2⑬ カプルーへ(201008010) [ゴンドゴロ・ラからK2へ]

山岳中心部から遠ざかっていることもあるのだろうが、皮肉なことにここまで下りてきたら天気が安定している。
朝日を背中に浴びながら6時過ぎに出発する。本来ならゆっくり、のんびり下山と言うことだろうが、これからのトレイルの状況が不安であること、さらに往路ではジープで一気にあがれたフシェからスカルドまでの道も寸断されている、との噂も耳に入っているので早出となる。
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10分ほどで右岸から左岸に移る。橋をくぐる水の勢いはこれ以上の激しさはあるのか、と言うほどにいきり立つように下っていく。下を見るとぞっとしてしまう。その先では左手から流れ込んでいる沢を何度か徒渉する。水量が増えているが飛び石沿いになんとか濡れずに渡る。
徒渉も経験するうちに恐怖感も薄れ、度胸がついてくる。ガイド達が手を差し出してくれるが、自力で徒渉出来るようになった。
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右手眼下には吊り橋が見る。マッシャーブルムにつながるトレイルだ。ここまで来ればフシェはすぐだ。8時10分前方に視界に入る。フシェの街と同じレベルから一気に河原に下ると、そこには豊かな畑が広がっている。雨が降り続けたこともあり、トレイルは水たまりというか水没していたりして、迂回しながら先に進む。枯れた大木を数人で担いで行き違った村人がいた。彼らは流された橋を補修するために登っていくとのことだった。フシェの集落への急登、そして家畜臭の漂う人里を感じながら、安堵感と一気に吹き出す疲労感が襲ってくる。
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往路で使ったキャンプサイトにはすでに全てのポーターが着いて寛いでいた。9時一寸前に着く。まずはそこの先の状況確認とジープの確保が出来るかだ。最初に分かったことは道が寸断されているのが間違いない事実だということ。袋小路になってしまったフシェには2台のジープがあるらしいが、問題はその燃料があるのかどうか。
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寸断されていると言うことは相当の距離を歩かなければならないということ。そのためにもここを早く出発したいのだが、ジープの手配が遅々として進まない。焦燥感が襲ってくる。燃料がないと言って足元を見ているようだ。なかなか手配が思うようにいかない。ようやくのことで交渉成立して、荷物をジープに積み込む。往路と違って荷物だけでなく、ポーター隊も全員乗っての移動になる。
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後部のドアを半開きで溢れた荷物をロープで縛って納めようとするが、なかなか納まらない。そうこうしていると、二人の白人を連れたガイドが来て、ポーターに話しかけている。これから上がるので来て欲しい、と言う誘いだった。結局、二つの集落から参加した一方の集落のポーター達はそこに加わることになって荷物の問題は解決する。

離隊するポーターへの支払いをこの場で急遽しなければならなくなって、ガイド、ポーターリーダーとポーターとの厳しい精算交渉が始まった。誰も満足気な顔をしていない。激しい剣幕で要求を突きつけてくる。それも一段落してようやく出発だ。11時に出発。
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路肩が崩壊して狭くなっている場所では全員車から降ろされ、歩いて先に進む。また車に乗って前進したが、11時40分には道路が完全崩壊していて、車を捨てざるを得なくなる。広い河原、ゴロゴロした岩を縫って丸太橋を渡って先に見える集落に向かって登る。
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12時に着いた集落はカンリ、建物も集落の人も明らかにチベタン系だ。埃にまみれた茶店があったが、こんな時でなければ入ることを躊躇するしろもの。ここで多少でも腹を満たしておかなければ次がない状況なので、チャイとビスケットで一息入れる。

ここでの課題はこの先の足確保だ。残念ながらここにはジープはなく、辛うじて農耕用のトラクターがあるだけらしい。ポーターリーダーが交渉をしている。ここでも燃料不足を理由に足元を見られて、高額の料金をふっかけているようだ。

ガイドがブウーブウー言っていた。ここまでのジープが4000ルピー、トラクターも4000ルピー、普段ならスカルドからフシェまでの料金に匹敵するらしい。でも他に選択肢がない無いからやむを得ない。また、彼らには現金収入の道が限られているので、責めるわけにも行かない。
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背丈ほどはあるタイヤが付いたトラクターの荷台に乗って出発。低速で空気を肌で感じながら360度の景色を堪能しながら進む。荷物の上に我々は乗っている。しかもぎちぎちに立錐の余地がない体勢だ。足の上に足が乗り、揺れるたびに膝と膝がぶつかり、決して乗り心地が良いわけがない。

トラクターに乗る時にはこの先15KMは歩き、その先で再びジープに乗ってスカルドに向かえるとの話だった。しかしどれもこれも噂の域を超えていない。先に進んでその場で確認をするしかないので、相変わらず不安は解消しない。

1時間は乗っただろうか。大きな河原の手前で道路は跡形もなくなった。ここで下車する。沢の水量も多く、水で深く抉られた川を徒渉。ここでは徒渉より、そこへの急峻な下り、登りで足場が悪く少し神経を使ったがなんとか対岸に渡る。
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ここから先は道路を歩くので特別の神経を使うこともなく、先に進む。行き交った現地人からはこの先ジープはあるけど、燃料切れだから乗れないだろう、との話もあって不安はますます深まるが、運を天に任せるしかない。

周囲には畑が広がり、カラコルムにしては零細というより恵まれた環境で農業が営まれている感じだ。道ばたには撓わに実を付けた杏子が橙色の実を付けている。手を伸ばせばいくらでも手にすることが出来た。

十分な昼飯を取っていないこともあり、もぎ取ってタオルで拭いて口にする。熟した杏子独特の味が舌に染み入る。私にとってはカラコルムと言えば杏子のイメージだ。歩いていると気がつかなかった事が目に入る。左手にお墓があった。当地では家族単位ではなく、一人一人の墓を作る。日本でも欧米でも墓所らしい雰囲気があるのだが、ここでは道ばたに何気なく存在している。そう言えば日本でも地方に行くとそんな光景もあった事を思い出した。
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2時50分マルチゴーンの集落を通過。アーガー・ハーンが寄贈した水力発電所がある。アガ・カーンとも呼ばれるイマーム(指導者)だ。北部では圧倒的な支持を得ているイスマイリア派分派ニザール派の指導者。女性の地位向上などイスラームの近代化を志向するイスラーム改革主義者で、スンニとかシーアの原理主義とは全く違った教義を持っている。パキスタン北部での彼の影響力は強大だ。

4時にタレッシーという集落に入る。ここがキッチンボーイのムディーンさんの故郷。まずは彼の家族がどうなっているのか、確認だ。本人はすでに故郷の村が土砂崩れで大変な被害を受けたことを知っている。彼の心中を思うとそうでないことを祈っているのだが。集落に入って坂を登っていくと上に行くほどに破壊されている家々が目に入る。その先に右手から流れている沢が氾濫して土砂が家を襲っていた。近づくと瓦礫が家の中にあるいは土台を奪って傾いた家、被災の現場を目の当たりにしたのは初めてだ。
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男達は慌ただしく、行き来をしている。被害を受けた家では家族ぐるみでスコップで土砂を掘っている。ガイドが声を掛ける。家族が2人生き埋めになっているので掘っている、でもなかなか見つけることが出来ない、と悲嘆に暮れていた。おそらく数日続けての作業なのだろう。力が入らないスコップを必至に動かしていた。この家族にとっては迷惑になるけどムディーンさん家族の様子を確認した。さいわい彼の家は災害を免れて全員無事であることを確認出来て安堵した。

ムディーンさんは未だ後方にいるのでこのことを知らない。いずれは分かること。ホットはしたものの目の前にいる被災者家族に何も出来ない気持ちを引き摺りながら先に進む。日程に余裕があればここで多少の手伝いがしたいが、先のことを考えるとそうはいかない。

氾濫した川の先に行くと、パキスタン軍のジープが止まっている。日本語ガイドがなにやら軍人と会話をしていたが、たまたまその責任者がフンザの出身者でガイドと同郷、日本人トレッカーのためなら是非このジープに乗っていくように、とのありがたい助けを貰った。このジープは被災状況の確認と現地への小麦粉の支給に来ていたようだ。

私だけがジープ前方にある座席に座らせて貰う。ガイド達は後ろの幌内にあるベンチに座った。3時には出発する。責任者が盛んに私に話しかけてくる。たまたま乗ったジープがMITSUBISHI製だったし、日本への尊敬の気持ちを盛んに話してくれる。嬉しいことだ。でもこのような尊敬は今後いつまで持ち続けられるのだろうか、と一寸不安になる。睡魔が襲ってくるが、折角乗せて貰っているのでうとうとも出来ない。必至になって話に付き合う。

集落のあちこちで車を止めては事情聴取をしているようだ。被災地から離れると車は砂埃を上げながら速度を上げて走る。そのうちに整備された道路になり、ますます速度を上げていく。気がつくとインダス川の合流地点の中州を走っていた。いくつも小さな流れを渡り、インダス川にかかる吊り橋を渡ると直ぐにT字路になる。カプルーに向かうのは右折だが、パキスタン軍の基地が左手にあるので、左折してあっという間にキャンプのゲートにつく。検札があるが当然素通りして官舎の前で、「お茶でも飲んでいって下さい」ということになった。
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食堂の前にしつらえた椅子に座っていたらさすがに日が暮れてちょっと肌寒くなっていた。「何にしましょう」と言われたので遠慮無く温かい紅茶を所望した。軍人が行き来している。彼らの服装は軍服もいるが、多くは普段着の姿なのでここが軍事基地かと疑問を感じるぐらいだった。なかなかカプルーへの車の手配の気配もなく気掛かりだった。そんな雰囲気を察したのか、「ご心配なく、ホテルまで送りますから」と声を掛けられてホッとした。

すでに夕日が稜線の上に近づき、夕闇が迫っている。再びジープに乗ってカプルーへ。ここからは舗装された道路で100KM近いスピードでクラクションを鳴らしながらあっという間にPTDCのホテルに着く。
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右手にあるレセプション兼食堂、そこで受付を済ませて階段を上がった右手の部屋に入って着替えやら久しぶりのホットシャワーで身体を洗い流した。なんと気持ちの良いことだろう。ザックの奥から下山後用に用意した綺麗な下着、上着に着替えて食堂に向かう。

明日はもう近くになったスカルドに行くだけ。予定より早く着いたのと相変わらずの不安定なフライトと言うことを考えるとそう簡単にはイスラマバードに帰れるのかどうか、不安ではあったが。
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