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普天間そして沖縄 [思いのまま]

鳩山首相がこの問題を取り上げ、今までの経緯、行きがかりを捨てて原点に戻ろうというところまでは久しぶりに「ここに政治あり」の快挙だった。しかし政治的覚悟、戦略があまりにも稚拙で行き当たりばったりの感は否めず混乱の坩堝に世論を追い込んでいるのは残念なことだ。

世論の平均的な常識である現状維持派の最大の根拠は軍備で急膨張している中国や狂気集団である北朝鮮への「抑止力」のためには、米軍への依存が唯一の手段だから沖縄は耐えるべきだと言ってきた。しかし、その沖縄は第2次世界大戦で日本本土をを守るために犠牲を一身に引き受けさせられ、しかも戦後は米国に占領され、アメリカナイズされた価値観を移植され、米国の前線基地として今でも位置づけられてしまったことだ。

この最大の犠牲者である沖縄に鳩山首相の発言は少なくとも現状脱却への一縷の希望を与えたことは事実だ。

つい最近まで沖縄での基地反対闘争は鎮静化し、ほとんど目立った活動が見られなかった。それは基地依存体質に追い込んだ日本政府の意図的戦略が結実したからかもしれないが、あるいは沖縄県民が我慢さえすれば、という沖縄県民の気質に付け込んでいたからかもしれない。

しかし心の奥深くでは何故沖縄だけが日本の犠牲者であり続けなければならないのか、と言う思いは沖縄県民の心中に通奏低音として流れていたはずだ。それが鳩山首相の発言で一気に噴出したのが今日的混沌の背景ではないだろうか。

今でも岡本行夫氏はNHK特集で大田昌秀元知事に向かって日本の安全のために沖縄は犠牲者になれ!と言って憚らない。米国へ刃向かうことに怯えるだけの弱腰で、日本外交が主体的に維持できる筈はない。今でも敗戦国日本、米国追従主義が戦後50年以上もたっても脈々と継承されている日本は米国の49番目の州と言われる所以である。

今問われているのは戦後政治の転換を普天間を通じてどこまで実現できるのかだと思う。米国と自国の利益を主張して対立関係を経験している国はいくらでもある。そしてその後、その険悪な関係が持続すると言うより新たね対米関係が構築されているケースはいくつもあるのだから。

今まで一度も反旗を翻したことがない日本だから今回のように抵抗する意志を示すと飼い犬に噛まれたと言う錯覚を感じているのが米国政府関係者だ。我々自身の人間関係でもこのような関係は普通に起きていることだ。子供が親離れする時も同じではないか。反抗期に親が絶望の淵に立たされるのに類似している。

いずれにしても沖縄の現状を改善し、日本全体でその問題を引き受ける覚悟がなければ普天間は解決しないし、その時、日本全体で「基地ノーサンキュー」をいうなら沖縄に理不尽な要求をするのではなく、米軍基地縮小、撤退を言うのが日本全体としての道なのだ。その上で今後起きうる新たな日米関係を痛みも受け入れて取り組んでいくべきではないのか。
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