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ヒマラヤ・トレッキング=⑮カンチェンジュンガ・トレッキング(11月5日) [カンチェンジュンガ]

セカトムからチルワへ

(11月5日)
今日の日程は余裕があるらしい。朝はゆっくりでいいよ、と言われていたが、結局は早々と目が覚めてしまう。陽が差していないととても寒い。写真を撮ったりして周りを散策したりして時間を潰す。グンシャコーラの上流には真っ白に輝いたピークを持つジャヌー(クンバカルナ)が見える。何故か彼らはジャヌーとは呼ばない。

8時05分出発。ダワさんは私が起きる前に先発した。フライトの予約は電話で入れたのだが、最終的には支払い行為が無いとキャンセルになるリスクがあるということでタプレジュンの飛行場に向かった。この時期はトレッカーが最も多い時期なのでダワさんは慎重を期したようだ。再びサブガイドのバッサンがリーダーだが、これから先は人里に近づくので不安はない。唯一あるのはマオイストとの再会リスク。彼らとの交渉には手練手管が必要なので若い経験不足の彼には一抹の不安が残った。

グンシャコーラの右岸を「ヘロク」を経て先に進む。グンシャコーラとタモール川が合流する。タモール川はチベット国境から氷河の水を集めて下って来るグンシャコーラの何倍もある大河だ。そこに長大な吊り橋が架かっている。見るからに新しい橋だ。その橋のお陰で下山が大変便利になったという。従来はタモール川の左岸をそのまま幾つかのピークを越えて下山するタフなトレイルだったそうだ。

グンシャコーラとタモール川の出合に突きだしている尾根の上にセカトムの集落があるが、振り返っても視界には入ってこない。今までの山岳という雰囲気からいよいよ人家の匂いのする環境に激変だ。川も大河となり景観を作るような繊細さが無くなった。なだらかな道を下っていく。左手を見ると木枠に網を張って何か作業をしている人々が居た。近づくと紙を漉いている。そう言えば以前に和紙に似た紙に印刷されたカレンダーを買ったことがあるが、それと同じ紙をここで漉いているのだ。老若男女がそれぞれ分担して作業をしている。木を細かく裂いて釜で茹でるもの、漉いた原料を乾燥させるもの、忙しそうに動き回っていた。子供達は下半身は丸出し、シャツだけ羽織って遊んでいた。


先に進もうとしたら道が幾つかに分かれている。人里に入ったからだ。ポーターが戻って紙漉をしている人達に確認する。一昨年から開通したトレイルはゆっくり下っていく。ストレスのない道だ。9時40分ごろ11才から16才までの6人の生徒達に行き違う。ネパールではかなり遠くから歩いて学校に通うわけだから、10時始業となっている。

昨日までの山岳風景から住民との接触、粟の栽培など一気に里の匂い一色。10時にはフェンブの集落に入る。すっかり汗ばむような亜熱帯の陽気に汗が出てくる。トレイルの左右に人家があり若い男、女達が何をするわけではなくボオーッと外を眺めている。


ここで一息入れる。ポーターが近くの木によじ登り蜜柑をもぎ取ってきた。未だ青々とした未熟な蜜柑だが口にすると酸味が利いているものの汗をかいているので、ちょうどレモン代わりになって乾きを潤してくれる。レモンよりは十分甘いので申し分ない。ついつい2つ食べてしまった。この集落はリンブー族の世界になっている。建物が独特の高床で藁葺きや竹をメッシュ状に編んだ壁などで識別できる。ここでは粟以外に米の生産もされている。
ネパールでは米の生産性は高くないようだ。黄金色に染まった稲穂がついているが、たわわに実って頭を下げる事はない。数えるのが簡単に出来る程度しか実ってない。生産性の低さは歴然だ。ここでは蝉時雨の中1425Mの標高まですでに下りていた。

この一帯はタモール川も両側に広い河川敷をもちその周辺にも平坦な拡がりがあって農業が盛んだ。タペトクの集落を通過、この先長い吊り橋を渡って左岸を進むのだが、橋の手前でランチとなる。11時だ。

草地にブルーシートを敷きコックが料理を始める。目の前が川だが集落に行って水を貰ってきて調理が始まる。仰向けになって昼寝をしているとバッタが目の前をバタバタと飛んでいった。金盞花のような花が咲き誇っている。気がつくと地元のリンブー族の老人が近寄ってきてガイド達と座り込んで話し込んでいた。彼は66才、バプティスト派を信仰するクリスチャンだとか。ネパールでキリスト教信者の話はカトマンドゥでも聞かなかったのにこんな辺地で目の当たりにするとはビックリだ。本当ならもっとその由来も尋ねたかったが通訳がいない状態ではそこまでだった。

ポーターが再び木によじ登ってフルーツをもぎ取ってきた。ハンボー(味からするとマンゴーの原種?)と言っていたがさて?でも疲れた体には美味しい果物だった。さっきの蜜柑といいよそ者がもぎ取っても誰も怒る訳ではないこの大らかさはなんだろう。貧しい生活だから子供達がもぎ取り尽くしてもおかしくないはずなのにどうしたことだろう。不思議だ。こんな大らかさにネパール人に親近感を実感するのかもしれない、とふと思った。

1時10分出発。すぐに吊り橋を渡る。対岸では旧道からの道と合流する。橋が流されたのだろう、孟宗竹だろうか竹を3本合わせて作られた仮橋を渡る。短いので恐怖はないが不安定な足元だ。ダラダラとした下りが続きだんだんと川面からの高度感が出てくる。2時30分右手眼下平坦なテントサイトが見える。しかし既に空きがない状態だ。我々はやむを得ず先のチルワ(1270M)の集落に向かう。

2時40分左右に数件のバッティーが並んでいる。左手のバッティーに入る。先ずはチャイを呑んで渇きを癒す。何人かの地元の男達がトンバという粟酒(アルコール度はビール程度とか)を呑んでいる。20センチぐらいの樽に管(作りはチベタンティーを作る筒の小さいサイズ)を突っ込み呑んでいる。しばらくするとダトパニ(湯)を入れてさらに飲み続ける。そしてなにやら話に盛り上がっていた。まさに日本の酒場の風景だ。


4時過ぎ2人の青年が入ってきた。一種異様な雰囲気、旅の途中という風でもなく、地元民ともシラットした関係で、席に座ってなにやら様子を窺っている風。ガイドのバッサンは彼らとなにやら話をしていたが、彼の顔には緊張感が漂うというか、今までの若者らしい甘さが消えて一転大人の顔に変身したのには一寸ビックリした。

30分ぐらいして一応立ち去った。ふと外を見ると同じ服装をまとった青年達が数十人行き交っている。バッサンからこっそりとマオイストが来たと告げられた。再び緊張の瞬間だ。今回のマオイストは今までにない数と武装集団だと云うこと。小銃を肩にかけて闊歩している。少女もかなり居るのにはビックリした。きっとかつての紅衛兵はこんな感じだったのだろうか、と想像した。2階にあるベッドルームに入って様子を窺う。小さな窓から下の様子を窺うが緊張感と怖い物見たさの好奇心が交錯する。従軍カメラマンになった気でカメラを向けようとするが、カメラ視線に不思議と彼らの目が合っているような気がしてシャッターが切れなかった。しばらく息を凝らしながら事態の変化を待ったが何も変わらなかった。

食堂に戻ると再びマオイストが来ていた。飲みに来ている住民と口論しているように見えた。言葉が分からないので何とも言えないが、政治的議論になっているようにも伺えた。バッサンもそこに入っている。道を挟んだ小屋が調理場になっていた。ラメスが夕ご飯を食堂に運んでくれた。今晩はカレーだ。その間バッサンが側に待機してくれているので不安はないが、マオイストの存在が気になって仕方がない。夕飯が終わるとガイド達も食事のため調理場に戻ったので私も彼らの食事に付き合って移動する。その場でびっくりすることが判明した。ポーターの一人がかつてはマオイストに入隊していたそうだ。貧しい生活から解放されたい気持ちがマオイストの存在を支えているように思えた。なにしろマオイストになれば食べることには困らない。集落に入れば力ずくで宿泊場所の提供を要求し、極めて廉価で食料を購入して自炊する。そんな毎日だからある意味気楽な稼業だ。時にはトレッカーからのドネーションもあるのだから。


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