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河野さんと三浦雄一郎 [思いのまま]

ほとぼりも冷めて過去化しつつある三浦雄一郎の最高齢での登頂そしてダウラギリ登頂出来ず帰らぬ人となった河野千鶴子さんは偶然にも相前後してニュースになった。それはピークハントのシーズンがその時期に限定されるので同時期になっただけだ。この偶然は山に向かう人間の両極にある姿を映し出す結果になった。河野さんに関する情報は部分的でしかないので正確かどうかは別としてある程度想像も含めていると断らなければならない。

片や億の単位の資金を集めてヘリコプターを使って美味しいご馳走に恵まれて多くのサポーターが支えて実現した記録の意味をどう受け止めればいいのだろうか。山を愛する人ならそれ以上を語るまでもないだろう。

他方河野さんは老婆の記録更新を目指すわけではなく、一人の女性として人生の再発見を山に求められたと言われている。ダウラギリというエベレストどころではない困難な登頂を目指し、ピーク手前100Mで先行したパーティーのトラブルで引き返さざるを得なくなっての途中での非業だ。しかも同行したサポーターは2名だけという考えられないギリギリの態勢だった。

この対比から学ぶことがある。金次第で望むものを手にする、額に汗をして頑張ることのばかばかしさ。昨今の世相は残念ながらそういう風潮に流されている。自然が商品化されやすくなったという事でもあるのだろう。マスコミがそうさせているのだが。

自然は命の源泉であり、心を豊かにする源だ。ところが自動販売機でコインを入れれば手に入る清涼飲料同然に簡単に手に入る。室堂にハイヒールで立てるわけだ。ヒマラヤでもホース・トレッキングが増えているし、へりを使って一気に高山へ、が日常化している。耐久消費財であった自然が、確実に消耗品化しているということだろう。

自然の懐に入って心を洗う。しかし自然は心を癒してくれるだけでなく、ある時突然牙をむきだして襲ってくる。そのリスクはしばしば避ける事が出来ない。それが自然の本質だ。河野さんはダウラギリでその両方を体験してしまったわけだ。自然との付き合いはだから難しい。生きることの極限を目の当たりにしながら、自然の懐に入るための汗が全ての呪縛から解放してくれる、その魅力に恋い焦がれていたのが河野さんなのかもしれない。

この時代、偶然にもヒマラヤで起きた二つの椿事は自然と人間の関わりについて強烈なメッセージを送っている。合理主義の蔓延で金次第の社会が支配的になり優位になりすぎたために社会の歪みが大きくなっている。その背景の一因に自然への畏怖、敬意の欠落があるのではないだろうか。自己中で自分だけの世界に引き籠もる。自分を支えている社会そしてその背景にある自然との関わりを遮断している。

もう一度心の豊かさを手にするために、そして自然と共存する社会を構築するためにも、多くの人が自然に接して欲しい。それも金次第ではなく、自分の足で額に汗して手にする自然との出会いを大事にして欲しいと願うのは私だけだろうか。
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